国語の教科書【6/31】

 

 

「これは、レモンのにおいですか?」「いいえ、夏みかんですよ」

このやりとりを見て、ぴんとくる人はいますか?

じゃあ、

「どんぴしゃり、お願いが叶った。」

という文言には?

 

キツツキが音を売るお話は? 戦争に行くお父さんのためにお母さんが用意したおにぎりを幼い娘がぜんぶ食べてしまうお話は? くじらみたいに大きな雲にクラスのみんなで乗る話。外国で貧乏学生をしていたとき、ご飯屋さんがただであたたかなスープを出してくれた話。出張に行ったお父さんが買って帰ってきた”えんびフライ”の素晴らしさを讃えた話。

 

教科書に載っていたお話というのは、どうしても私を惹きつける。

とくにこれらはぜんぶ、小学生のころに出会った物語たちだ。

なかでも、『温かいスープ』は、今でも私がエンタメとしての読み物に求めるものの、礎となっているかもしれない。

 

お話の舞台はパリで、主人公は大学非常勤講師であり、月末になるといつも貧乏に喘いでいた。

毎週土曜日、図書館に行く関係で常連となっていた家族経営らしいレストランで主人公は食事をするのだが、月末になるといつもいちばん値段の安いオムレツを注文していた。

ある凍えるほどに寒い日、他の客がみんな”大きなあたたかそうな肉料理”を食べているなかでオムレツを注文した主人公。それを気の毒に思った店のおばあさんが、「注文を取り間違えた」と言ってオニオングラタンスープを無料で出してくれた。主人公は涙を流しながらそれを食べた。

 

この話の行き着く先は「国際性について」なのだが、短いエッセイを十数年ぶりに読んだ今の今まで、そのことは綺麗さっぱり忘れていた。

国際性の基調となるのは、隣人愛としての人類愛である、無償の愛である、と語るために温かなスープは登場するのだが……。

 

あまりにも鮮烈だった。見たことも聞いたこともない「オニオングラタンスープ」とやらの、成人男性が涙するほどの温かさ。

それこそが行ったこともないパリの寒さを想像させるし、たぶん木でつくられた(どうやら昔の話であろうから)店内の、外気との寒暖差や人々の安心なども想像できる。

 

しかしなにより、”大きなあたたかそうな肉料理”という表現がなんとも魅力的だった。

行ったこともない国で、テーブルを囲むのは自分とは違う人種の、たぶん背の高い人々で、自分の母国語ではない言葉を盛んに話し、それを理解はできるもののぜんぜん身近には思えなくて、他人よりももっと遠いところにいる、自分はヨーロッパの寒い夜にひとりぼっち、そして、彼らのための大きなあたたかそうな肉料理。

もくもくと湯気を立てるそれは、ひとりじゃないことの証明で、食べるときっととんでもなく元気が出て体温も上がり寒い夜も怖くなくなる魔法の料理だ。あたたかなだけでなく、お肉を使った贅沢な料理なだけでなく、大きいのだ。滋味深く優しく、土地に根ざした調理法でこしらえられたそれ。

”大きなあたたかそうな肉料理”。これだけの言葉で、ふたつの形容詞とひとつの名詞だけで、主人公のひもじさと羨望、精神的な寂しさと身体的なそれ、店や他の客の雰囲気や電灯のいろ、彼らの頬に当たる湯気など、たくさんのものが伝えてよこされる。

たぶん主人公にさえ料理名が不可知だったという点で、むしろ”オニオングラタンスープ”よりも衝撃的な存在だったかもしれない。

 

こういうものをやっぱり、いつも求めているような気がする。

簡潔で基本的な言葉で語られる、新鮮な情景。読者の想像力をいっぱいに使わせて、追体験をさせるような。そしてその温かさや暖かさや冷たさや寒さ、つまり触覚としての温度さえも記憶に残ってしまうような。この場合、なんでもないスープを、並外れて美味しく素晴らしい料理に、料理人の力でなく描写力によって仕立て上げてしまうような。

それをするために用意された下地の文章、表現したいものを具体的にするための高まり、感情や感覚の共有。

 

そして文章表現というのは時を経てもまったく変わらないのに、歳をとった私にはもっとたくさんのことが想像できる。

パリの街はきっと、石で造られた建物ばかりだから底冷えがすごいだろう、とか。日本人に注意と気配りをこれだけ向けてくれる店員さんは少なかっただろう、とか。

たんに寒い日に外に長くいたときの足先の感覚や、周りの人には同席する仲間がいるのに自分にはいないときの胸を締め付ける孤独など、歳をとるだけで経験できることが、想像の下地として身についている。

そうなると物語の立体感は増すし、それは書き手とはまったく関係のないことなのだ。

 

教科書に載っていた物語やエッセイなどを今一度読み直すと、自らのなかになにかを新しく発見できるかもしれない。

音楽や文章、映画など創作物は、時を経てもまったく変わらない。ほんとうの意味で変わらずにつねにある。

そういうものは、つねに変動を続け、呆れるほど一進一退、成長か退化かわからない変化のただなかにいつもいる、自分というものを測る尺度になってくれる、かもしれない。

先生や親だって人間なので考え方やスタンス、人との接し方を変えるけれども、思想や思考や教えや経験、たくさんのものが煮詰められて琥珀のように永遠に固められた、創作物というのはいつも中庸でつねに不変だ。

 

だから、小さい頃から読書をしないといけない!には一理あるのかもねっ!

 

 

 

そして調べたら、今道友信『温かいスープ』は中学校3年生の3学期で扱ったようです。なにが「これらはぜんぶ、小学生のころに出会った物語たちだ」、や。