夏休みの少女たち

 

 

 

棒切れのような腕を、カラフルな布から突き出した、髪の毛が長いだけの少女たちが闊歩している。

お盆休みだ、親に連れられてそれはもう大量に。

みんな同じ顔をしていて、家から出るのは1000000日ぶりですみたいな顔をした父や母に手を引かれ、親にだけぽそぽそ喋りかけたり、ものを見つめたりする。

彼女らは決まって仏頂面を決め込んでいて、上機嫌な少女なんてものはこの世にいない。

あの年頃の女の子というのは、常になにかに倦んでいる。

 

私も小学3年生くらいまでは、棒切れだった。信じがたいと思うが、ゴツい女子を始めたのは小4くらいからだ。そこからずっとゴツい女子をやっているが、ともかく。

夏、不道理なほど日に焼け、カリカリの手足を、ファミリアやラルフローレンのワンピースから突き出した、雌雄不明の子ども。

なにもかもが怖かったので、遊園地に連れて行ってもらっても、アトラクションをかたはしから拒否する子ども。

可愛げなんてまだ見えないほど遠くにあって、世界は把握不可能なほどとりとめなく、妹の金切り声に苛立つくせにいじめずにはおけない子ども。

 

大人の女の身体を持つ私は、あの頃の私のような少女を見て、吹き出しそうになってしまう。少なくとも、ニヤニヤとしてしまう。

氷のかけらほどのシンパシィ。炎天下、そのものだったはずの氷でできた心を、経年と共に溶かして、今はかけらほどだとしても、あの頃のかたくなさや、冷たく残酷な少女らしさが、まだ、体内に残っている。そのぶんの、シンパシィを感じてしまうから笑ってしまう。

 

小さな身体に押し込められて、痩せた土の牛蒡みたいな手足を突き出した少女らを見て、ああ、ぜんぜんこの身体には戻りたくないなと思う。

今の、大きな、存在の確かな、身体があってよかった。子どもの身体は自由がなんとも効かなそうだ、少なくとも、大人の身体を持っててよかった。

 

なにもかもに倦んで不機嫌な日に焼けた彼女たちもいつか女の身体を持つのだ。望むと望まざるとに関わらず。

笑顔を手にして可愛げを見据えて、女らしさを大なり小なり身につけて。