またターンの話してる

 

 

 

『ハライチのターン』リスナーです。

 

先週の回、澤部のフリートークは、フジロックに行った話でした。彼はフジロックにはすべてを放棄して行くことにしているのです、その期間には家族も仕事も免除される。ちなみに2女1男の 彼は父親です。

コロナ禍でずいぶん長く行っていなかったから(前の2年は開催されていなかったのもあり)、澤部は喜び勇んで会場へ行きました。ホテルをとり、芸人仲間と会い、音楽やフェスの雰囲気を楽しみ、自然のなかでお酒を飲み、それはもうエンジョイしていました。

しかしフェスの客たちのなかに、どうしても、自分の子どもと同い年にみえる子どもを見つけてしまうのです。楽しそうにしている子たちに、東京に残してきた家族を重ねる。娘はどうしてるかな、息子はどうしてるかな、ちゃんと宿題やってるかな……。

仕事や育児から解放される貴重な時間です。なにも考えずに飲酒でき、家に帰る必要もない。それなのに、澤部は、最終日ゆっくりお酒を飲んでホテルで休む代わりに、1日繰り上げて東京へ帰ったのでした。ホームシックになったと言って。妻・子どもに会いたいと言って。

 

それを聞いた岩井は、「そうやって、もうどこにも行かなくなるんだろうな」と言いました。

その言い方は責めるようでも、哀れむようでも、逆に羨むようでもありませんでした(というか岩井はいつもほとんどトーンが変わらない)。

岩井自身は、自らを「ぜったい結婚できない」と何度か評しています。彼には彼のセオリーがあり、それを曲げられないそうです。女性との間に妥協点を見つけられないんだそうです。たまにそういう話をラジオでするので、女の人と別れたタイミングなのかなあと勘繰ります。まあそれはよくて

 

私は先週のラジオを聴いて、家族のためにどこへも行かなくなることは、なんて幸せなことなんだろうと思いました。

1個前のブログとは完全に矛盾しています。していますがしかし、どこへも行かないで幸せならどこへも行く必要がないのです。

お外へ出て行く必要がないほど、あなたの場所が素晴らしいなら、それ以上のことがあるだろうか。

そして、その場所のなかでも毎日戦いや休戦協定、永遠の妥協が存在するのです、外へ出ることなんかよりも100000000倍骨の折れることでしょう。それなのに、帰りたいのです。外へいる、存在することに耐えられないほどに。

箱の中へすっぽり入ってしまって最後に蓋を自らばたんと閉じてしまうことこそがいちばん、安全であるというふうに。

 

岩井は、ひとりで外食できないのに外食が好きだけど食べることに重きを置いていないそうです。

へんなの、でもわかります。

とにかく、外に出たいのだと思います。家の中に入って蓋を閉めると息苦しくなってしまうのかなと想像します。

もちろん、自分の一人暮らしの部屋はリラックスできます。自分のままでいられます。好きなことができるし、それに文句を言う人もいません。

しかしひとりぼっちの自分は、いっさい輝きません。誰の目にも映らず、映らないということは反射がないということです。人の輝きは、いつも言うように反射です。鏡になる人が周りにいるからその人は輝ける。

そして、暗い箱の中へ一緒に入ってばたんと蓋を閉じ、同じ空気を吸う人は、いちばん近いところにいる愛する人は、輝きを反射してはくれません。ただ、私の本質を一直線に見るだけです。そのことはたいへんな安心を生み、生きる糧となりますが、自分が輝いているという自覚をは決して与えてはくれないのです。

 

しかしリフレクションはいつか手放さなければ。

いつまでもエネルギーに輝いてなんていられない。

本質を見つめてくれる人、反射してきらきらさせてくれるわけじゃなく、情にまみれて愛の網脂でふたりごと包んで一緒くたになる人。

それが人生には必要なんだと思います。私はね。

 

お外なんて、なくなるほうがいいんです。

危険に塗れているのだから、認識の外、マイプレイスから削除したほうがいい。

 

それでもやっぱり私もまだ、ひとりで外食するのはつまらない、誰かと観る映画が楽しい。