最近まあちょっと病んでるんですけど
というのは不健康という意味で
だからまあ不健康というのは体のことではなく心のことなんですけど
それはなぜかというとわたしが誰かとセットでいられることがゼロだからなんですけど
セットでなくても誰かと一緒にいることより一人の方が心が休まるし一人の時にしか本来の自分でいられ得ないな、と気付いてしまったわけなんですよね。
一人で下宿している家に帰ると心底ほっとする。
それがわたしはとても悲しい。
なので世界人類を愛することにしたんですよ。
だから、他人に 親以外の顔の見える誰かに、愛を向けることができないなと思ったので もう 顔のない人たちを愛そうと。
本当に慈しみの心で溢れてるわけなんですよ。
だから 人々よ幸せになってくれよ…と本当に思うし、愚痴を言ってる人を見たら ああ事態がなんとか好転しますように…と本当に思うし、不意打ちを受けて予期せぬことに心を乱されてる人がいたら、ああどうか心の波立つことなく穏やかでいられますように…と思う
でね、もうね、そうなったんですけどね、自然と。でもそれってめっちゃさみしーって思って
世界を見るとき、目は世界の外なんですよ。
人々の幸せを願うとき、わたしは人々から外れて本当に一人になる。
そんなことが健全なわけないじゃないですか。
だからわたしは今不健康なんですよね〜
顔の見える誰かを本当に愛せるのはたぶん、酔っ払ってる時だけだな。
飲みの席で 人々に一体感を持たせるのは お酒でしょ。
でも シラフの状態って 一体感もクソもないじゃないですか。ただの寄せ集め、烏合の衆じゃないですか。
それってめちゃくちゃ恐ろしくて、だって、わたしじゃなくていいんですよ。てことは、わたしの価値を見せつけないと いないことにされるわけで 人々の中においてわたしはなにも、プラスになれるものを持っていなくて
だからいわば丸腰でジャングルですよ。ボイトレなしの歌うま王決定戦ですよ。念能力なしの闘技場ですよ。
でもね 別にいいんですよ この胸には愛が溢れてるから…FIN
ああ
今日ねゼミの先生がね「人生の目的は自分の片割れを探すことかもね」って言ってて
ああああああ〜…って、まあ、思うじゃないですか。
この時代においてこんな素晴らしいことを言う先生のゼミに入れたことを超嬉しくも思ったんですけど まあそれは置いといて
片割れ…!
それこそ江國香織の 『アレンテージョ』で 恋人達が初めて出会ったときに「こんなところにいたのか」ってね、片方が言うんですよ。ね。「こんなところにいたのか」。どう?どう思う?
この作品こそわたしが江國香織にズブズブにはまったきっかけの短編なんですけどまあ今はそんなことはよくて
そんな風にね、片割れを見つける瞬間(こんなところにいたのか!)、そしてそれが束の間であってもながーくであっても一緒に過ごす時間。それを得るためにこそ生きるのだと。
逆にいえばそれ以外のところでどれだけ不幸であっても、片割れを見つけられたなら幸せなのではないかと。
それが全人類にあてはまるわけじゃないけど、一部の人にはね、それだけでいいんじゃないかと
いう話ですよまったく。どう?
素敵すぎひん?そして真理だ。わたしの中ではね。
そうして 「愛してる」も「ずっと一緒にいようね」も嘘だとしても 一緒にいる瞬間に心から口に出せばそれは真実になるんですよ。
ねえ、これはゼミの友達とかが言ってたんだけど、どう?「わかるボタン」があればあそこでわたしは30回くらい押してたなあ。
べつに作り物に見えたって 嘘っぽく見えたっていいんですよ。片割れ同士が一緒にいて事態は完全無欠のまん丸ですからね。まん丸が永遠でなくてもべつにいいんですよ。一瞬でもまん丸になれたなら。
そうしてそんな片割れを 一体どれだけの人が見つけられるのだろう。そんな存在がいることすら現代人のほとんどが知らなそう。小説の中の出来事やったとしてもわたしはそれを信じたいし、信じられるほど心が豊かなことに感謝したい。
心が豊かやからといって 片割れ以外と時を過ごすことができなければ 人間として欠陥なんですけどね。
演じることをやめたい、お酒しかやめさせてくれない…わたしがほんとのコミュ障だな。とほほ
でもわたしは人にちゃんと愛されてることは知ってるし人を愛してるんですよ(愛されてるってのは順番云々ではなくてだから、愛着に近い意味でね。気軽な重さで)。ただ一緒にいられないだけで。
片想いだなあ、、、人類への。辛いぜ。
いつかわたしも完全無欠最強無敵になりたい。それかもはやなった後?まん丸をもう体験したのかな。だとしたらまあ、もういいか。じゃあ何のために生きるんじゃ?
なんにしろ考える時間だけはたくさんあるので、いろいろ考えてゆきましょう。あーはらぺこ
おやすみなさあい