映画の話から言葉の話にいつのまにか

 

 

 

 

今日、映画の授業で 先生が言ってて なるほどと思ったんやけど

「赤い液体がぶわっと流れるのを見て、赤い液体だとしか感じられない人は映画を観るのは向いてない。

そこから 血だ、あるいは 血みたいだ、と連想できる人にしか映画というのは観ることができない。だって全部偽物なんだから。」

って、当たり前のことやけど そうやなあって

映画なんて 事実を基にした内容やったとしても 虚構でしかなくて、嘘っぱちで、どこにも、本当のことなんて 何一つなくて。

全部が作られたもので わたし達は事実でもなんでもなく、人生において多分必要不可欠なんかではないものを、観ている、

じゃあ映画の何がすごいって、やっぱり、そんな虚構から 人生における教訓や 感動や 共感を 感じることができるわたし達がいる、というところじゃないかな。

恐ろしく長い時間をかけて作られた2時間程の映像に敬意を持って、観察して感じ入る。おまけにそれを一緒に観る誰かと共有できる。

そーゆーのは小説じゃそうはいかないし、映像作品ならではよね。

 

子どもが トミカを本物の車と見るみたいに

わたし達は 映画の中の人生を 生身の人間の人生みたく見る。

ミニカーをおもちゃとしか見れない人には ミニカーで遊ぶことはできひんしね。

映画を観終わって言う言葉で一番最悪なのは「でもまあ映画の中の話やん。」やね。

そりゃあただの映画、嘘っぱちのお話って言ってしまえば、そうやん。

でもそんなことを言う奴はいよいよ だめだね。

いつだって何かから何かを感じようとする努力はやめない方がいいと思う。

そしてそれについて考えること、考えたことを他人と共有すること、共有できない部分について検討すること。

それをさせてくれるのが映画じゃない?

 

とか、時計仕掛けのオレンジも サイコも シャイニングも ゴッドファーザーも 観てないわたしが言うことではないが。

小説についてだって、三島由紀夫太宰治夏目漱石も読んでいないわたしが語るべきでもない。

能動的にならないと何かを摂取できないのは難だなあ。受け入れるべきと思うものをすんなり受け入れられるようになりたい。

 

今言えることは 言葉は大事

それなのに 大事なことのなかには 言葉で伝えきれないこともある

ということだ。

そうしてそれでも言葉を尽くしていくこと。

 

映画も小説も 漫画もアニメも

全部 言葉で成り立っている。言葉は細胞で命だと思うのだ。

それなのに言葉について知らないことが多すぎるし、言葉に重きを置かない人が多すぎる。

もし ほんとうに大事なことが言葉では言い表せない場所にあったとしても それが言葉を尽くさない理由にはならない。

 

と、わたしの一番理解し合いたい人には これがわからないらしいので それはもう、仕方ないけど、わたしはとてもとっても残念だ。

言葉を尽くすことの中にある、適切な言葉を見つけた時の嬉しさ、痒いところに手の届かない時の歯がゆさ、二人で言葉を探す楽しさ、味わいたかったなあ。

 

 

 

あーあ、また隣人が騒いでいます…

最悪だ…

どうせ 彼らはろくな言葉を使わない人なんだろうな。頭悪そうな喋り方しやがって。

 

おやすみなさあい