もう大丈夫だから

 

 

 

クリープハ イプを聴き倒した高校時代だった。

つまりはいつでも、創作物というのは私の経験の先をいく。興味ではち切れそうになった中高生だった私に、知識ばかりを与えたのは、まぎれもなく歌とインターネットだった。

 

まあ、それはいいとして。

クリープ ハイプには好きな曲がたくさんあるが、いちばん、「について考える」のが『大丈夫』という曲だ。

 

その曲の一人称は「あたし」、つまり女性視点だ。「あたし」は、「あんた」がどんなふうでもひたすらに「大丈夫」だと言う。

「どんなに情けなくても」「歌ってる時は格好いい」し、

「誰かに騙されても」「あたし」が「ずっと信じててあげる」し、

「一つになれないならせめて二つだけでいよう」と言ってくれる。

「どんなに悲しくても」「泣いてる顔も可愛い」と言ってくれるし、

「誰かに怒られても」「ちゃんと謝って」くれる。

「辛くて」も「痛くて」も「怖くて」も、「大丈夫」だと言ってくれる。

 

めちゃくちゃ好きな歌だ。なんというか音頭風? な曲調も、ちょっと照れ隠しみたいな昔気質な雰囲気も、いい。

なによりもこんなふうに「大丈夫」をくれる人が近くにいたらとってもとっても素敵!、それを得ることによって人生の向きは変わっていきそうな予感! という感じだ。

 

 

そうして いっけん、そこにあるのは底抜けの母性による無償の優しさに見えるが、これはべつに優しい歌でもなんでもないんじゃないかと思う。

 

だって「歌詞を書いてる人=あんた」に見えるから。

個人名を書くとなんだか具体性や他の意味を持ちすぎてしまうと思うのであえて出さないけど、歌詞を書いてる人が、存在しない「あたし」を求めて求めて求めているという気色が見えて仕方ない。

底抜けに優しい愛を与えてくれる「あたし」なんて存在しないということの裏返しにしか見えない。

 

初めてこの曲を聴いたときの自分がどんな解釈だったかはもう覚えていない。それほどもう自分のなかではある意味”古い歌”になっている。

第一印象は、「優しい人もおるもんやなあ」やったかもしれへんし、「恋人ってこんなふうに言ってくれるんや」かも。

 

しかし今思うのは、こんなことを実現可能にするのは母親だけだということ。

そして母親にこんなことの実現を願って言語化するには歳をとりすぎているということと、小さなときには当たり前にこれらを求めて疑わなかったということだ。

 

今はもう存在しない、自分が全面的に甘えられる存在。概念的な母親。むしろどこかに漂って宙ぶらりんな母性。

私たちは母親と「一つ」だったはずの肉体を、無理やり「二つ」に引き裂かれ、それなのに母親はもう、じゃあ「二つだけでいよう」なんてことは絶対に言ってはくれない。それを表立って求めることだって私たちはできない。

 

じゃあ、次に必要なのは母親の代わりだ。

妥協。外付けハードディスクでもって代替品にするしかない。

 

でもそんなもの簡単に見つかるわけがない。だって人々は受け入れることよりも受け入れられることを求めているから。みんなが母性を探して徘徊している、「もう大丈夫だから」とあやしてくれる誰かを。

 

この歌がもしも優しいなら、この歌を書いた人がそれを誰かに実践しているときだ。

「あんた」ではなく「あたし」にこそ、なっているときだ。

そしてそれを優しさとするなら、私たちは自らがしてほしいことを通してしか優しくはなれない、ということになる。

 

これはいつも言っていることなのだが、

「百貨店で、駅で、カフェで、誰かにも自分のためにドアを開けておいて欲しくて、誰かのためにドアをおさえておいてあげるということは優しさではない、のか?」

ということだ。

 

あるいは、

「百貨店で、駅で、カフェで、誰かにドアをおさえておいてもらったことがあるから、自分も誰かのためにドアを開けておいてあげる」のほうが優しさか?

 

抽象化すると、

「してほしいことをする」のと、

「してもらったことをする」の、

どっちが純粋に優しいといえるのか、ってこと。

 

私の、現時点での意見とすれば(一人称で話す時には必ず現時点の、がつくのだ)、前者はある種のフェイクを伴っているのではないか、という感じ。

だって「自分がしてほしいこと・を他人にする」って、他人という鏡を通して自分に優しくしているだけだから。だと思うから。

優しくしてほしい誰かから優しくしてもらえなかった自分に、自分こそが他人を使って優しくしてあげる。っていうのが前者の優しさ(仮)じゃない?

 

でも困ったことに、後者の優しさをばかり行使する人を私は無条件に賛美したくない。

もし後者がピュアな優しさだとしたら、それを行使する人は、たんに恵まれていただけにすぎないと思うからだ。

いやわかる。

その人の善良さがまず第一にあるのはわかる。

他人からの優しさを当たり前のものとは考えず、優しさとしてきちんと受け取る”荒んでない”人格が、この優しさの前提だということは。

それでもやっぱり、主に「してもらったこと」で自分の優しさを形成する人というのはなんか〜〜〜〜〜〜〜〜信用できない! ここまできて感情論!!

 

いつも思う。

「与えてもらえなかった人」と「たくさん与えてもらった人」の優しさは似ていると。

どちらも同じくらい優しいとして(優しさが測れるならの話)、その見た目はとっても似ているんだろうと。ひょっとしたら周囲からの評価だって似通うのかもしれないと。

でも私は、「与えてもらえなかった人」の優しさのほうが人間的に優しいと思う。

だって誰も傷つけない優しさだからだ。とっても独りよがりで、自己完結型の優しさだからだ。

いつも、孤独な人のほうが優しい。

でも、独りよがりな優しさは、きもい!!!

だってときとして他人を使ってオナニーしてるってことだから!!

捻じ曲がってると思う!!!!!!!ほんとに!!

 

だからなにってわけじゃないけど。

いい悪いの話でもないし、誰かに優しくするには見返りの必要なときもじゅうぶんにある。

悦に入るのは悪いことじゃない。というよりも私こそが誰かに優しくしてそのことで悦に入る人間だ。

 

ただ、まあ、最初に戻って言うと、

あの歌はちょっときもいということだ。誰かに、してほしいことをひたすら並べているんだから。とてもじゃないけど普通に生活している人には、恥ずかしくてできない所業だ。自らの恥部を芸術に昇華しているんだから。

だからこそ刺さるんだろう。

ある人間にとってだけ極端に肯定的なものだから、その人間に刺さる形をしているんだ。

 

きもいものこそが市民権を得る時代に、私たちは少し生きやすいのかもしれない。

私たちの「たち」は、私のような人間を一般化して言っているだけの謙遜みたいなものです、いや自意識から生まれてきた?

 

 

 

久しぶりに文章を書けるほど頭働いてるからブログ書いたよ。

みんなにとっての優しさってなに?

もう「自己犠牲的な人」を「優しい人」だと形容する時期は過ぎたよね?

じゃあどんな人が優しいんだろう。やっぱり自分にしてくれたことによって優しさの数値というのは決まるのかねえ。