「べき」の話

 

 

「べき」という助動詞は使われるべきでないと思う。

誰かの行動をどうしても制限し、縛る働きを持つからだ。

他人の主義なんて知るか、糞の役にも立たん、なわけだし。

 

でも私は主義や縛りの多い縄師なので、今日は自分の「べき」を話そうと思う。

 

 

まず、ソフトクリームというのは生乳100%であるべきだ。

温度がそこまで低くなく、絶妙に固形をなんとか保っているくらいの硬さであるべき。脂肪分が高く、凍ってしまわないのがソフトクリームであるべきなのだ。

なにしろ「ソフト」なのだから。

コンビニで売っているかちこちのあれは、形態模写ってだけの偽物だ。偽物にもプライドがあるべきで、なにより卑しいのがあれにはなんのプライドもなさそうなところだ。

というのも、ソフトクリームというのは先述の通り、固形としてはゆるゆるなので、夏の日差しにすぐに溶けてしまうような軟弱なものだ。だから、完璧にきれいな巻きグソ(ところで私は食べ物の話をしているときに小学生下ネタが出てくるのが大嫌いだ、うんことかおしっことか。でも今は言わなければならないという使命感から言っている、あれを表すときに巻きグソと。自縄自縛とはこのこと)型というのは本来つくられないのだ。

それなのにコンビニの冷凍庫のなかのソフトクリームは、なんだあれは。

あんなに美しい巻きグソ型があっていいわけがないのだ。

 

 

 

あるいは、アルコールの話。

自分がアルコールの分解酵素を多く持っていないこと、そういう民族、に生まれたことを心の底から残念に思う。

だってアルコールは、毎夕食ごとに等しく摂られるべきだと思うから。

私は、ものを見つけるのが極端に下手くそだ。こないだ実家に帰ったさいに、くつろいでからしばらくして「あれ! パキラめちゃくちゃ育ってるやん!」と母親に言ったら驚かれた。それは玄関からリビングに入れば自動的に目に入る位置にあり、テレビの真横でかなりのびのびと我が物顔をしていたから。「いま!?」。うちのお母さんというのは私のこの性質についてずっとみてきたのにいまだに新鮮に驚いてくれるからおもしろい。

まあ、どうしてこの話をしたかというと、アルコール摂取時というのはつまりこれの拡張ではないかと思うからだ。

見たいものしか見えなくなる、見たいものに集中してしまう、物事を知覚する力すべてでもって、そこにしか焦点が合わない感じ。

アルコールが全身に行き渡り、しかし自分を手放さないでいられるあの、決してお酒が身体に毒ではないと信じられる時間。あれはしょうじき無敵である。

だから、アルコールは本来、家族の食卓でも恋人との食事でも、友人との会合でもどこででも、気軽に摂られるべきなのだ。

その空間をお喋りを、味覚を雰囲気を、すべてに感覚を鋭敏にして楽しむために。

しかしもって遺伝的な理由でそれはなし得られない。しゅん。

 

 

 

また、ショートカットのこと。

ショートカットというのは、思想であるべきでない。し、でも、やっぱり思想でもあるべきだ。

これはほんとに難しい問題だ。

さいきん、美容院選びをミスって、鬼ダサのショートヘアにされてしまった。もうほんとに外見に煩わされない場所にいるおばさんみたいな髪型になっている。さいあく。ナルシシストの私もさすがにフォローしきれないブスさ。

そういう場所まできて、ああ〜やっぱり、髪型には思想が反映されなければ、ある程度、だめなのだなあと感じた。

邪魔だから短く切る、なんてことはあってはならないと思うからだ。

女性らしさを表すならそれで吉、女性であることから抜け出したいならそれも吉、吉なんて私が言うべきでもないんだけども、あくまで私から見て好もしいと思えるのがそれらだ。

見た目というのは自らがどう見られたいか、どういう形で社会に関わりたいか、がダイレクトに表される。そしてそれは表されるべきなのだ。

だからもう、嫌なのがモテたくてショートにしてる人と、髪の毛が邪魔で坊主でもいいほどやけど女やから一応ショートにとどめてるおばさんね。

モテたさとか、利便性とか、もうそういう合理的な理由で髪型を決めてる人とは本当に分かり合えないと思う。

でも、じゃあなんで「思想であるべきでない」のかというと、たんに思想って”かわいくない”からだ。

思想を振りかざすのって、ほんとうにかわいくない。言ってしまえば言葉だってかわいくないし、議論もかわいくない。文字だってぜんぜん、かわいくない。

可視化できる概念というのはすでにかわいくなくて、ていうか概念て言葉もかわいくないし、だから、まあ見た目くらいはかわいくあるべきだ。

つまりどういうことかというと、髪型にはある程度思想が反映されるべきで、でも思想を全面的に主張してしまうのはかわいくないから、その思想はできるだけ言語化されるべきでない、ということ。

 

 

それでいくと、人間はすべからく(この言葉のこの使い方は誤用らしいけど江國香織がこの文脈で使ってたから私も使う)、おしゃれをすべきだ。

前に述べた通り、見た目を整えるということは、人に受け入れてもらう準備をするということだからだ。

自分はこういう人間で、こういうことが好きで、という自己表現と、

ある程度の清潔感、見た目を社会の基準にできるだけ近づけようとする努力、美しいものに近づこうとする上昇志向と。

そのふたつの間で折り合いをつけて、そしてはじめて人とのコミュニケーションの場に出てくるべきだと思う。

いや、私が言ってるのはなにも相対評価の話ではない。

どういうことかというと、出かける前に鏡のまえに立って、「よし!」と言えるべきだという話だ。

「よし!」。これはほんとに個人的な掛け声だと思う。何が、も何を、も、主語も目的語も明示されずだからこそ自分にだけわかるゴーサイン。

自分が「よし!」を出せない姿で人前に出て、それで誰かから受け入れてもらえるかもと考えるなんてなんて甘えた考えだろうと思う。

おしゃれに画一的な響きがあってはいけない。それは一義的な言葉ではない。それぞれがそれぞれに及第点を持つべきで、そして、誰かと関わりたいなら常にそれをクリアしていこうという気概でいるべきだと思う。

なんか難しいな。誤解を大量生産してるような気がする。

けっきょくはだから、内面だけじゃなくて見た目の面でも、自分を好きでないと自分に自信持って他者と関われないし、そうしたら本来受け入れてくれるかもしれなかった誰かにも受け入れてはもらえないだろうし、仲良くなれるはずの誰かを逃すかもしれない、自分が自分のまま誰かに受け入れてもらいたいと願うなら、自分がまず自分の「よし!」をゲットすべきなんだ、という話ですわ。

 

 

 

 

あとね、デパートは冬でも暖房を効かせるべきではない。

有料のレジ袋は無地であるべきだ。

可能な限り文章に触れるべきだ。読むのなら情景を思い浮かべて、あるいは頭で組み立て直して。書くのなら主語と述語に矛盾なく、正しく言葉を使おうとする努力でもって。

パブリックで大人数に影響のある発信は、たくさんの人間のフィルターを通して行われるべきだ(これによって私はユーチューバーやティックトッカーが苦手なのだ)。

 

 

そう、誰かといるときは上機嫌でいるべきだ。でも体調が悪いならそれを伝えて、普段のパフォーマンスを発揮できないならそこに理由があるべきだ。それで理由があったとしても、相手に気を遣わせる隙は与えるべきではない。つまり、調子が良くなくたって態度はそれに影響されるべきでない。

上機嫌以外許されるべきでないのだ。コミュニケーションにおいて。基本的には。

「辛いことがあっても笑えよ」ではない。決してない。逆だ。

「辛いこと、しんどいこと、憂慮せざるを得ないことがないなら、笑えよ」である。

これはまじで今までのなかでいちばん偏りがあると思うのだが、人といる限り「疲れた」とか「なんかしんどい」とかは通用しないと思う。

いま、一緒にいる人間のことを考えた行動をできないなら、コミュニケーションの資格は一時的にでも恒常的にでも、ない。

「人間やから気分が乗る時も乗らん時もある」はそれはほんまに前提としてほんまにそうで、そのうえで、当たり前のそれのうえで、それでも誰かといるならばその誰かに気をつかうべきだと思うのだ。

なにが言いたいかというと、つまりは、思いやりのない人間は誰かと一緒にいるべきでない、ということだ。

 

 

 

 

そうして最初に戻る。

「べき」の入った文章は話される「べき」ではない。

だから私の今日のこの話は、誰の考慮に入れられる「べき」でもないのだ。

そうして私はこのうちのどれも、まったくもって、ほんとうに、100%ではないにしても、誰にも強要はしない。

そしてそれと完全に並行して、私はこれらを圧倒的に正しいと信じている。同居可能な真実として。

すべてが自らを縛る縄なのである。

これがいちばん説得力があると思うけど、私はサディストではないので。誰かを縛るつもりはない。

 

でも「べき」の話ってちょっとおもしろくない?

人によって違う主義の話。かわいくない話。

「べき」の話聞きたいな。そして私の「べき」にも反論してほしい。私も誰かの「べき」に「え〜?? まじかよ! へんなの!!」て言いたい。

私が否定の形をとるとき、それは否定ではなく面白がってあなたのさらなる反論を聞きたいというだけのきっかけに過ぎないから。

 

 

 

………っていう。やるべきことすべて後回しにして語るいつものやり方。私は自分に優しいだけでなく、べたべたに甘くもあるのだ。

 

じゃあね!