あの…………たまにやるテキーラとかの関係で、ぜんぜん毎日更新をできませんでした。
私っていっつもそう!ぷんすか
ところで、好きなのが汽水域。
海に向かって流れる川の、河口近くの浅く透明度の高い水のなかに、なにやら巨大な魚が泳ぐのを見るときのわくわく感。
エイ的なものは、きっと淡水にもいることがあるんだろうけども、そもそも川魚だって鯉しかふだん見ないもので、やはり大きなサイズの魚が悠々と泳いでるのを見ると楽しい。
黒々とした鱗のない表皮と、丸々した体を持つ魚の群れとか、薄っぺらい体でひとり泳ぐやつとか、まあ〜見てたら飽きない。
しかし川というのは流れゆくもので、見学する側もずっとずっとは見ていられない。
橋は渡るためのものだし、道は歩くためのものだし、過ぎ去るようにできている。
流れのあるものはいつだって忙しない。
梅田のJRから阪急に行くとこの橋の上だって人がびゅうびゅう流れて止まらないし、ご飯屋さんだって人が来ては去って来たら去ってと忙しいし、流れのあるものはぜんぶ、リラックスさせてくれるようにはつくられていない。
諸行無常よりだんぜん、悠久の時を感じたいときだってあらあ。
そんなときに人は海を見にいくのかもしれない。
海辺の道には流れがない。海はこちら側に波を打ち寄せるだけで、どこへも流れていかないように見える。遊歩道の"遊"には、時間を遊ばせるための余裕が設けられている。
なにも滞らないが、なにも急かさない。
海辺の時間はゆっくり流れる。海の近くに住む人は、時間への解釈を長いスパンで行うので、大らかになるのではないかと思う。
カリフォルニアの海の近くの住宅地をサイクリングした際の気持ちを覚えている。
「こんなところで生まれたら、こんなに捻れた人間にはならんかったやろうな」という気持ち。
暖かく、広くて風がいつも吹き、身軽な格好で誰とでも会える、ぜんぶがどこへも行ってしまわず、かといって臭く溜まってはしまわない、海の近くに異様な憧れと浪漫を持っている。
とはいえやはり、わくわくするのは汽水域をさらっと見ているときだ。
海水と淡水の混ざるその曖昧な濃度の水のなかを、ふだん内陸では見たことのないような魚たちが嫌にゆったりと支配的に泳いでいるさま。
あるいは陸地に所狭しと舫われた、これから海に、今まで海に、出ていた個人所有の漁船たち。
広い川幅、海に向かって、ゆるまる流れ、あの曖昧さが好きだ。
曖昧なものはよい。現在地を見失うので恐ろしくはあるが、飲み込まれてしまわない限り居心地がよい。
善良ではないかもしれないが、健全ではないかもしれないが、優しい。