たいむれす

 

 

ずいぶん遠くまで来た。

それでも地続きの場所に。

 

昨日の夜にやるはずだったストレッチを起きてからやる、今日の昼ごはんの残りを夜に食べる、そんな感じの地続きに。

 

人は死に向かって生きるんだなんて言葉が中学生の頃からぐらいの流行りだけども

もはやそんなところ超えてるんじゃないかと思う。

「終活」なんて言葉を聞くたびにそう思う。

 

虫や鳥がつがいを探すのは子孫を残すためで、多くの生き物は子を産めば死に向かう。

死というものがもう生活にインプットされている。それは種の存続のために不可欠のものに思う。

長い、その種別としての、長い長い歴史のなかで、個の消滅なんてなんでもないのだ。

全体のために尽くすわけでもなく、個を殺すわけでもなく、ただ自らの生存がイコール種の存続となる。だから病気の仲間を見捨てられるし、強烈な母性を発揮できるのだろう。

 

それに比べて私たちは、死を遠くに追いやって生きている。

というよりも距離が遠いのだ、そもそも死との。

老いさえも後回しにして、病いにさえ立ち向かって、死を汚いものとして飾り立てて。

身体の生死なんてリアルじゃない。大切なのは中身で、バーチャルだ。

 

昨日と今日を切り離し、明日のことさえ予期できずに毎日を均して生きる。

もはや私たちは死に向かって生きていない。なにもせずに過ごすことのできる時間を持ち過ぎているがために、時間はベクトルをなくしている。進まない。時間はただ、存在しているだけだ。

 

そんななかでもずいぶん遠くに来た。

ひとりで過不足なく暮らしているとふと隙間に思う。

今の自分は夜の(朝の?)四時までジャニーズの動画を見たりパソコンをかたかたやったりしてもオッケーだし、ご飯を何時にでも食べられるし食べないこともできるし、頭痛の原因もだいたい推測できるし、丸一日を寝て過ごすこともできる。

ルールがない。

あんなに、なにかを強制されてきたのに。

一列に並ぶことや走ること、濡れることや座ること、話を聞いてるふりをすることや尊敬しているような顔をすること。

社会というもの、人間の種を保つための大きな流れ、存続のための秩序。

そこに出たり入ったりできるという自分が、場所に、いるということ。

こんなところに来るつもりではさらさらなかった。ずいぶんと遠くへ来た。

家族という小さな社会からも隔絶された場所で。

ひとりで笑うこともできる。

 

というよりも、ひとりででも笑わなければならない私たち。

個人主義というのはそういうことではなかろうか。

誰かを笑いの対象にするということはそのままもはや優しくない。

 

死に、なににも、向かっては生きていない。

漫然と宇宙のように広がった時間の海のなかでぷかぷかと漂っている。

浸透圧でぶよぶよとやがて私たちの体は膨張し、いつのまにか変わり果てているのだろうが今は気づかない。

そうしてなによりの幸せが、なににも気づかないということなのだろう。

 

 

 

 

さいきん適当にしゃべることがうまくなってきたので

終盤なに書いてるかわからん

とにかくそろそろ好みの男性のタイプについていつまででも喋れるというようなことはやめたい今日この頃です。

 

おやすみなさい・