「当たり前じゃん、大好きなんだから」
今日は開襟シャツ、三つ目のボタンまで開けて。
情慈はこちらへかがみ込む。ハイウェストの黒いパンツ、そのゴムにたくし込まれた銀色のシャツを内側から、見てしまう、タンクトップもなにも着られない胸板。触れずとも感じられる、肌の湿度。
キスを寄越した。前髪は、上げられている。眉毛が非対称に動く。言葉が聞こえたのかどうか、眇めている。
「ほんとうに?」
春子は、今日仕事へは行かないでと頼んだのだった。
ファッション業界フレキシブル、うさんくささとバリバリのキャリアのちょうど真ん中みたいな26歳。
「行かないよ」
ソファが左側へ沈んだ。春子の身体は簡単に傾いて、林檎が塔から落ちるように、隣の肉体へ倒れ込む。
「愛してるんだから」
海の流れの自然さで、情慈は春子の身体を包み込んだ。横から、というよりもほとんどすべての方向から。
「お前の言うことならなんでも聞くよ」
耳元で囁かれる重い声音のその言葉を、目を閉じ味わった。
私も。
私も愛している。
しかし今日はそれを、言わない。
「友達なんだから」
今日はフーディー。
夏でも、薄手のそれを着るのは太陽の下に出ない彼特有のファッションだ。暑い場所には行かない。必要なときにしか汗をかかない彼。
「関係ないよ、お前には」
サングラスさえかけていた。室内、クーラーがきいていて、彼の持つグラスには水滴はつかない。
「あるよ」
春子は、努めて背筋を伸ばす。決まりのソファから彼を見上げる。
「ある」
もう心は折れていた。女の子とふたりでご飯を食べに行ってしまう、彼を咎める権利さえ、彼女にはないのだった。
「どこに」
彼は鏡を見ていた。前髪を直す、神経質な指先。ルックスを気にする、執拗な視線。
「どこにあるの」
「あなたがどこかで他の女の子と寝ると知りながら眠る夜は、地獄よりも苦しいの」
「その地獄ごと」
トップの毛を立たせて、そうして、情慈は振り向いた。サングラス越しに目が合う。黒いフーディー。下ろされた前髪。
「俺を愛さないといけないんだよ、お前は」
大きな歩幅で、ソファへ近寄る。春子はもうほとんど、彼が恐ろしく、身じろぎもできずに待った。眼だけを辛うじて動かして、睨んだ情慈の、瞳が暗く光る。手が伸びた。春子の頬を触る。反射的に、強く目を閉じる。
「目を開いて」
その言葉に、暗い声に、反抗なんてできるはずがないのだ。
開いた目にうつる情慈は、知らない人のようだった。
「ぜんぶ見るんだ」
照明が落とされる。白い肌が、クーラーで冷やされた室温のなかで、じわりと光って浮かぶ、簡単に、見惚れてしまう。
「そうじゃなきゃ、好きだなんて言わせないよ」
だから春子は、耐えねばならない。