梔子を揶揄する小説を書いたことがある。
中学生か、たぶん高校生のときに。
「お前は梔子みたいにぬらぬらと媚びた匂いをさせて、そのくせ咲いた瞬間にしか美しくなくすぐ朽ちる、俺はそんなお前を抱いてやっているのだ」というような短い、小説とも言えないつぎはぎみたいな小話だった。
今思えば酷い内容だ。「な、なんでそんなん言うねん」の塊みたいな話だ。
「ぬらぬら」とか「媚びた」とかいう単語は使っていなかったけど、そのようなことを書いていた。驚くべきはその、恋に対する考えの、ねじ曲がり方である。
当時の私には、恋愛経験はなかった。本は読んでいたけど、伊坂幸太郎とか山田悠介とか中村航とか、男性作家の、さっぱりした小説しか読んでいなかったはずだ。(山田悠介がさっぱりした話を書いていたかどうかは今は置いといて)
男の子に恋したことはあったけれど、手の届かない人気者の子だったり、既婚の先生だったり、とくに現実的なものはなかった。
それなのに梔子の花の咲いているのを見て、嗅いで、媚びた花だ、なんて考えて、恋愛に当てはめるなんて。自分にはいっさい、なんの経験もないのに。
そりゃあ、恋愛うまくない大人になるわけだ。
ムカつくのが、今でも梔子が咲くたび、匂いを鼻に感じるたび、その話を思い出すことだ。
咲く直前の蕾の可憐さ、花開いた直後の全てに勝利する白。そしてすぐに茶色くくしゃくしゃに、惨めに成り果ててしまう花弁。
彼女の匂いは甘ったるく、やはり今の私にも媚び"すぎて"いるように感じる。
花の色は綺麗で、見惚れるほどだが、すぐに枯れて朽ちてしまうことを知っているので、その儚さにまた、いじらし"すぎる"感じがしていらいらする。
梔子の花を私は好きだが、なんとなく、素直に好きと言ってしまうのは癪に触るのだ。今でも。
すべてがオーバーアクションで、胸焼けする。今のアンハサウェイみたい。
と、考えて、中高生の頃の私をまだ私は捨てていないのだと安心する。
恋愛が、なにかありえない、自分の身に降りかかるはずのない、非現実的で他人事な、なにかだったときの自分。
変わらず性格が悪くて、ねじ曲がって捻くれているのに、へんに盲信的な。
女学生だった私、きいてくれる?
私はまた性懲りも無く、現実から離れたところで人を好きだよ。
奈良の近鉄百貨店のカプリチョーザで、設けられた七夕の笹に、「彼氏が欲しいです」って短冊を飾ったよね。妹に「え〜!ママ、お姉ちゃん彼氏欲しいんやって〜!お姉ちゃん彼氏欲しいの〜?なんで〜?」って散々茶化されて、「べつにおったら楽しいかなって思って」とかかっこつけたよね。楽しいとかじゃなくて、ちゃんと恋に恋してたのに。
その頃と変わっていません。短冊にはもう、書けませんが。短冊に書くほど夢見事ではなくなってしまったので。
その頃と変わらずに歪な恋愛の、人間関係の、話ばかり書いています。ちょっとは上達したと思いたいな。
梔子は、もう盛りを過ぎ、茶色くなっているというのに、いい香りはそこらじゅうに立っている。
そういうところも、なんかな、ムカつくんよな。