ノープ!

 

 

人にはさまざまな面がある、もちろん。

それは社会のなかでのロール(役割)に、人格が引っ張られる感じ。

求められた形、あるいは求められていると感じた形に、人は自我を寄せる。程度の差はあれど、どことなくそこはかとなく、三角、四角、星形、ジンジャークッキーマン型、人は自分の形を変える。

とはいえそれは、クッキーの型ですとんと、底までくっきり、切ってしまうような変化(へんげ)ではなくて、どちらかといえばスライム、流動的な私やあなたは、固体と液体のあいだの常に可変である物体、のまま、ほんのりと三角や四角を形作るのだ。

それは自我がないということではない。自分という確固たるものの存在とは矛盾しない。

私は私のままで、輪郭だけがぐにょぐにょと形を常に変えて、社会にフィットしようと動いているだけなのだから。

 

とはいえさいきん、ひとりでは形を保てない私。

あまりにも人と会い、話し、つねにどこかに身を置いて、なにかの形になろうとうにうに、しすぎたのだこの数ヶ月。

それは楽しくて楽なことだ、なぜなら、自分が理想とする型があって、それを演じ、自然体でそれに成ろうとすることができるから。

理想の自分になれるのはいつだって、誰かと一緒にいるときだ。

母といるときには楽しく機嫌良く賢い私。この友達といるときは下品な言葉を多用する大袈裟な私。あの友達といるときは優しく紳士で寛大な私。働いているときはさわやかでにこやかなだけの私。男の人といるときは女らしく朗らかで無邪気な私。

ぜんぶ、収まるべきポジションがあり、というか自分で勝手に見出して、それを目指すので楽だ。自然体で、しかも。

人が、他人の目を通して、反射してしか輝かないというのは私の常日頃から話している持論だし。

だから、ひとりぼっちで誰にも認識されない素の剥き出しの私には、三角四角星形の型に当てはまるため四肢を伸ばさない私には、面白みがない、輝かない。そんな自分にちょびっと、耐えられないディーズデイズ。

こうして人はひとりでは居られなくなるんじゃないかとぞっとしている、自然発光しても、自らの核が光っても、それを反射してくれる物質がなければ光っているかなんて認識さえできないんだから。

そして自分が光っていなけらば耐えられないなんて、そんな、ありきたりな悩み、ブルシット。

ロールを社会に求められた気で、なんとなくそれをこなしていることに安心するなんて馬鹿げたふつう、私は要らないはずなのに。

 

どうしてももう、自分であるということが自分ひとりではさいきん、背負いきれない感じがする。

あなただよ、と、周りに言ってもらわないと正気を失いそう。

 

そして今日も少なくとも女であるという役割に当てはまるため、マッチングアプリでライクノープノープノープ!