親知らずを抜いたときのこと。
正確には、歯医者さんに行って、親知らずのあることを指摘・批判され、抜歯の日程を組まされて、そうして大きな病院に赴き、親知らずを抜かれた日のこと。
ひどく暑くて、自転車で行かれる距離なのに電車に乗った。このごろの夏の常として、お外に出られない、出ることが不可能なほど暑い日だった。駅から病院まで歩くだけで汗が全身を包み、知らない場所に行くには暑すぎた。
私はその総合病院にしてはこぢんまりとして庶民的な総合病院で、とても市民的な受付のお姉さんとやりとりを交わし、歯を取り扱う部門まで行った。それは2階だった。
歯を取り扱う部門にも独自の受付があり、そこでも私は要件を告げ、少し待たされ、診察室に入った。
私は怖かった。なによりも、歯を抜くという行為に想像が伴わず、想像が伴わないことが漫然と行く手に横たわっているということは恐ろしいので、怖かった。
怯えているときに強がったりはしない。先生はとくにフレンドリーではなかったが、看護師さんは比較的そうで、私は「怖いです」と言った。
「どんなふうですか?」「痛いですか?」「血はたくさん出ますか?」「どのくらいかかるんですか?」
フレンドリーではないお医者さんの先生もしまいには態度を軟化するほどに私は怯えた。
しかし私は同時に、怯えることを楽しんでもいた。とにかく親知らずを抜くというイベントは私にはニューで、それをされることを体験するということはフレッシュだったから。
私は果敢に診察台に横たわった。歯は思ったよりも顎に根を張っていたようで、治療は少し時間がかかった。私はその間じゅう拳を握りしめて、振動や音、衝撃や麻酔による無感覚に耐えた。ひとりぼっちで。化粧もせずに、髪もそのままで、無防備に、あるがままで耐えた。
終わって、真っ二つの歯を見せられてもなんの感慨もなかったし、帰り方に隙があって炎天下を歩くことになって、血が思ったよりもたくさん出たけれども、私は無感動だった。
思えば、心が麻痺していたのかもしれない。楽しんだり、なにも感じなくすることで、恐ろしい出来事をやり過ごそうとしていたのかもしれない。
振り返るとなんて偉業だ、と思う。
美容院や夜なかのトイレさえもひとりで行けなかった私が、ひとりで歯を抜いてもらいに病院へ行き、拳を握りしめて、あの痛みや衝撃に耐えたなんて、誰も伴わずに。
母も妹も伴わずに、耐えただなんて考えられない。
それもひとりの人間みたいに、周りの人間とコミュニケーションをとって、笑って、ひとりでも誰かに向かって笑って。まるで知らない人たちのなかで、ひとりぼっちで社会に向かって、笑って。
私は私たちは、生きていくためにどんどん性質を変え、理解できないモンスターになるしかないのかもしれない。
そして私にはあと3本も親知らずが残っている。