鍵の開けられる音を意識のそとで聞いた。
認識するよりも先に、鼓膜が打たれる、がちゃり、と何かを徹底的に変えてしまう、音、その音を立てた人間というよりも、音そのものが針となり心臓に小さな小さな穴を穿つ。
帰ってきた。
驚きに耐えがたい苦痛に恐怖に、震える瞼を開くことよりも閉じていることができずに、開く。
帰ってきた。
腋の下に汗が滲む。パジャマにしているスウェットの保温性によって自らの毛穴から放たれたすべての水分が身体に戻され、発散され、また反発してこもって仕方がない。舌で唇を舐めた。胎児のごとく丸めた背中の角度が急に不自然に思われ、下になった左手が痺れ、右手の指が軋み、それでも動けない。動くことを身体が、許可されていないと違和感を訴える。
遠くから途方もない遠くから、滑らかな板の圧縮される音、音、湿った厚い布とフローリングの擦れる音、音、音が近づき、
息が吸われるのを聞く。
金属のレールを小さなコマがなぞり、空気の流れが変わる。
「ただいま」
囁き、音量こそ自己満足な、しかし明らかにこの耳に投げられた声。
帰ってきた。
起きているとも知らず、汗と外の匂いをふんだんにさせて世界を変えるあなたが布団に忍び込む。私の腹に腕を回す。首元に冷たい鼻がつけられる、その、触れられた最初の、瞬間にすべて
忘れてしまう待機の苦痛を。
すべてを投げうった馬鹿らしい無の時間を、なによりも望む帰宅さえも恐れて動けなくなる、凍結の長い永遠を。
清潔さを捨てて 有意義なものを捨てて個性を、娯楽を、あらゆる思考を捨てて、温もりを味わう。
熱さを、その熱さを。
腋を濡らした臭い汗はどこかへ去り、私は自分の身体が完全に冷えているのを感じた。遅れて、鳥肌が立つ。そうして、寝息が聞こえる。
でもぜんぶ、またあなたが去れば忘れてしまい苦痛に耐えるしかないのだ。
苦痛か 無か、それしかないのだ。
生活。私は正気を忘れ、狂気を忘れてあなたと暮らす。