肩透かしの言葉の群れは会話じゃないよ

 

 

 

どっちかなんかなあ。

めちゃくちゃ賢くなって 先を見通せるようになって、社会貢献して、高みを目指して、お金を稼いで環境に良いものへの支援をして、均整のとれた身体でもって人生を生きるか。

将来への計算を放棄して 目の前だけを見て、人間と ただ人間と関わり続けて、実際のもの、目で見たものだけをひたすらに盲信して、欲に負けつつ人生を生きるか。

 

どっちか以外は正しくないような気がする。

道理に反しているような気がする。

 

政治や環境問題も、全体を見通せる賢い人にとっては論じる必要のある議題で、でも

コミュニケーションを髄として生きてる人には、目の前の野菜の値段や服の可愛さが何よりも自分に大事で、

そのふたつが合致するところに 到達点ってあるのかなあ。

 

映画や本の、創作物を通して 自分たちを描写してもらってはじめて 自分を客観視できるけど

それだって おもしろさや新鮮さ、彩り豊かな画面や見目麗しさに流されていってしまう。

 

それでも私たちにはコミュニケーションがある。

場所がある。

というよりもそれしかないのかも。

 

ほんとは電話やLINEやフェイスタイムや、あんなものはあってはいけないのかもしれない。

会う、しかないのかもしれない。

ほかの何もかもがその上に乗ってよくても、コミュニケーションだけはネット回線には乗ったらいけないのかもしれない。

 

 

 

って なんか 泥臭い考えを起こしたりしています、さいきん。

たいてい二日酔いか遊んでるか たまに勉強してるか、なので まったく文章を書いていません。

私の核なのに😡めっ!

まあそういう期間があってもいいんじゃないでしょうか。

 

 

じゃっ