葉桜ってだいすき【1/31】

 

 

好きな花というのはたくさんあるが、嫌いな花もまた、それほどたくさんではないが、ある。

たとえば今の季節なら、アジサイなんて一年を通して一位を争うくらい好きだ。もちろん睡蓮だって咲き出すのも楽しみだし、もっと夏の盛りに進めば芙蓉、もといハイビスカスが咲く。アオイでいけばタチアオイがこぞって咲き出しているのも嬉しい。

嫌いな花は、もう姿を消したけれどもツツジ。街路樹然として、媚びているのか凛としているのか、よくわからないところが嫌い。仲間であるサツキはまだしつこく咲いているが、彼女らはなんというかこまごましていてよい。小さい花をたくさんつけて、スイミーみたいなので許容。

オシロイバナにおいては、子どもの頃に仲良くしてもらっていなければ好きじゃなかった。さんざっぱら花を捥いで、黒くてふしぎにまん丸い種を集めまくったものだ。握りしめるので手の中で熱く熱くなった黒い塊。

 

ちいさい頃は、ひとんちの花でも構わず触りまくったものだ。

よその家のモミジの種をひきちぎったり、芝桜をさわさわ触ってみたり、もちろんオシロイバナだってひとんちの軒先に咲いていた、わさっと。

境界線が今よりずっと曖昧だったのだろう。自分のものと他人のもの、自分の家族のものと他人の家族のもの、所属が曖昧で、遊び場に居合わせたり近所同士だったり、理由づけはなんでもよく群れることができた。

好きと嫌いの間にもそんなに大きな差はなかった。あの子がムカつく、こんな嫌なことされた、私があの子を泣かせたり、友達同士で手が出たり、でも、ちいさい頃、私は人のことをそんなに嫌いにはならなかったし、かわりに好きにもならなかった。

ぜんぶ、どうしてだか周りに存在していたし、私はそれらに取り囲まれていたし、とにかくぜんぶが、ぜんいんが、あったし、いたのだ、許可もなく。許容の余地もなく。

 

だから、花を好きとか嫌いとか、そんなふうに見るようになったのはごく最近のことだ。

少し前まで母親が、「かすみ草ってなんか嫌い!」とか、「儚げなスミレが大好き」とか、そんなふうに言う気持ちがわからなかったけれど。

「鼻の高い男の人が好き」とか、「どうしてか気の強い女友達ばっかり」とか、そんなふうに人の好き嫌いの定まってきた私の、次の決定事項だったのかもしれない。

 

物事は二律背反であることが多くて、なにかを嫌ってしまうのは視野を狭めてしまうことなのかもしれないけれど、そのぶん好きに焦点を絞れるのだからあながち、間違ったことではないのかもしれないでしょう。

その辺を歩いていて、不快なものや嫌なやつ、見るに絶えない他人の趣味、嫌いなことはたくさんあるけど、いちいち嫌いやわ〜と確認してそのぶん、それでも好きなものがたくさんあることも確かめていきたい。

 

私が許そうと許さざると、物事や人間たちは圧倒的に私の周りを囲んでいるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

で、6月まるまる毎日、文章をなにかしら書くことにしました。

今日は5月やけど早く始めて悪いことはないでしょ!な!

文法的に正しい文章って書いてないと鈍るからなあ。