メタモルフォーゼ【12/31】

 

 

私の人生というのは、常に「○○になりたい」という とんちきなifとともにある。

 

それが始まったのは、高校生の頃だと思う。

あの頃私が夢中だったのは、すばるくん。関ジャニの元センターの彼。

髪に縮毛矯正をあてて、ぱっつんにして、ヘルメットヘアにして、伊達メガネをかけて、彼の真似をして歌を歌った。

あのとき高校にいた人たちのうち、私のことが見えていた人には、「あの人は何を目指しているんだろう」、あるいは単純に「痛すぎる」と思われていただろう。

わかりやすい逃避は、でも、現実の否定ではなくて、単純に彼に憧れ、彼になりたかった。

なりかわりたいのでも、生まれ変わりたいのでも、近づきたいのでもなく、なりたかった。

なりたいと願うことで、少しでも理解をしようと思っていたのかもしれない。

遠い存在に、共通点を無理やり増やして。

他人になりたいと願うことで、自分の身体を少しの間抜け出す。

 

人生最大の痛みを受け、すばるくんになること、というよりそれまで好きだった色んなものから離れて、次に なりたくなったのは、江國香織の小説に出てくる登場人物。

これには今でもなりたい。

自由なのに束縛され、浮世離れしているのにごくたまに現実的、放浪しているかと思えば土地にしっかり縛られる、家族に愛されて育ちながら喪失を味わい、執着にがんじがらめになる、花びらのように湿度を持つのに若竹のように跳ねっ返りの強い。

でもなんといっても、彼女たちは精神的に華奢で、筋肉がなくて、小さい身体をしているから、それとは正反対の私にとってはとても現実的とは思えない指標だ。

それでも、なりたいので、ちぐはぐになる。

しかしすばるくんのときと少し違うのは、それを目指したいのではなく、自然に自発的に、なりたいのだ。そうありたい。彼女の小説に書かれるような人間になりたい。登場人物に共通点を多く持ちたい。彼女たちでありたい。

 

そのほか、恋人を持ったり手放したりすると、なりたいものは次々増えた。

常々言うのが、

どこかの小さな港町で生まれた女の子になりたい。

そこでは みなが漁業に従事して、当然、自らが生まれた家でも父が海に出、母は漁協で働いたりして。兄弟や幼馴染、みんなそれぞれ町を出て都会で働いたり、地元に残って漁業に従事したりする、でもみんな、盆と正月には帰ってくる。ずっとずっとそのコミュニティに縛られる。その土地に縛られる。何があっても海を見に行くような、そんな、遠い誰かの生活。それになりたい。

 

あるいは、大阪の南の方に生まれたヤンキーになりたい。

学生時代からずっと付き合ってきた男と若くして結婚・妊娠をし、たくさんの家族に囲まれて自分は化粧もせずにジャージを着てどこにでも行く、両親も当然すぐ近くに住んでいて、義実家とも仲良し、旦那の浮気に本気で怒る資格のある女性、そんな、遠い誰かの生活。

 

はたまた、映画『パッセンジャー』のようなふたり。

宇宙を移動するための果てしないコールドスリープの旅から、事故で目覚め(させられ)たふたりきりの男と女のどちらか片方になりたい。決められた相手とのインプットされたような恋愛と快楽と気が狂うような呪縛その末の幸福、そんな、ありえない誰かの生活。

 

と思えば、男性の同性愛者にも。

自分と相手がいともたやすく同化してしまうことの甘美、同じであることによって際立つ異質さ、甘やかな一体感に身悶えして逃げ腰になる馬鹿馬鹿しさ、女性に生まれたからぜったいにありえない清潔ないじらしさ、を、獲得し行使する生活。

 

自担・ジェシちゃんにだってもちろん、なりたい。

白くて滑らかに伸びる手脚を使えば何事にも説得力が宿る。誰の耳にも通るあの声、なんでも口に出せるのにただ自分が楽しんでいることだけを伝えたいと考えるナチュラルな傲慢さ。自分が笑うだけで周りの全員が笑ってしまう、空気を簡単に支配してしまう、見えない圧力をかけてしまえる上機嫌さ。………というのは事実ではなくて、あくまで、私がなりたいと感じ想像した、壊れたプラグでの無理やりな同期の果てのなにか。

 

街で歩いていて、すれ違う人にももちろんなりたい。

黒髪ストレートを揺らしながら歩くいい匂いのするお姉さんにももちろんなりたい、骨の細さを内側から感じたい、目尻から頭皮をなぞって、頭蓋骨の子犬のような儚さを感じたい。

身体を鍛えた男の人にもなりたい、その肩甲骨を自らの手でなぞりたい、湧き出る熱い体温の源を一人称で知りたい。

容姿に気を配らない太った男性にもなりたい、その孤独を芯から感じてみたい。誰かに触れられたいのに誰にもそうしてもらえないジレンマを抱えてみたい。欲望の川の終わりの諦念の滝を見たい。

髪の毛を銀色に染めた顔のパーツすべて整形した女の子にもなりたい。埋められない空虚とそれに追いつこうとする焦燥感、それでも縋ろうとするときの快感を感じたい。

 

自分の身体と育ちと精神とでは、体験できるはずがないものを体験したい。

それぞれの人々にはそれぞれの一生があり、それぞれ重いのでぜったいに背負うことはできないのに、だからこそ。

生きる辛さなんて側から見ていてわかるわけがない、自分の人生の分しか。

だから私は消費的に、キャラクターとして他人を勝手に愛でてしまい、取り込みたいと無遠慮にも考える。

 

 

そのせいで小説を書くのかもしれない、と今思った。

誰かになってみたい、誰かの人生をどこかにつくってみたい、その人生を自分のなかに常に宿していたい。

繋がれない誰か、架空の人物と、ひとつになりたいので言葉のつぎはぎでキメラつくってみる、そのようにして書くのかもしれない。

 

私は常に誰かになりたくて、それは自分の人生から逃げたいからそうするのではないのに、結果として自分の人生は疎かで、逃避ばかりしていることになっている。

困ったものだ、誰だって誰かになってみたいでしょう?

羨ましいとか、嫉妬とか、そういうマイナスの感情を抜きにして。

 

自分という要素の介在しない完璧な他人をどこかに作り出せたらなあ、楽しいだろうなあ。

はあ………VRとか、そういうことじゃないんだよ、ベイビー。