ロール【13/31】

 

 

 

「私が嬉しいならあなたも嬉しいでしょう」という考えは、一見シンプルに"自己中心的"に見えるが、奥深いと思う。

 

まず、そういう考えを持つ人は、愛されて育ったのだろう。

その人が小さいころに、何かを食べて笑顔になれば周りが(とくに親が)笑顔になり、何かを気に入ってご機嫌になれば周りが喜び、転けてしまって泣き出せば周りが焦って一緒に悲しんでくれる。

自分の感情がどこまででも広がり、波紋をよんで大きくなる。

女の子に多いのではないだろうか、そういうふうに育った、愛された子ども。

本来、性別関係なく許されるべき、どんなふうにでも感じてどんなふうにでも表現できる機会が、女性に生まれたら獲得できる確率が上がるというのは変な話だが。

 

ジェンダーロールを明確に"社会的男"と定めて子育てをされた男性は、マイナスの感情を抑圧することを覚えさせられがちなのではないか。

痛い思いをしたから泣く、悲しい思いをしたから泣く、根拠のあるその関連性を無理やり、「男だから」と否定されて過ごせば、自分の感情と周りの感情がリンクしないことに気づくのは早いだろう。

 

 

 

英語には "I'm happy for you."という表現がある。誰かが得をしたときに、その友達かなにかが言ったりする。意味は言葉の通りで、「あなたのために私は嬉しい」、つまり「あなたが嬉しいということが私は嬉しい」という意味になるだろう。ニュアンスとして、ここにはプロセスが二段階ある。あなたが嬉しい、それを感じて私は嬉しい。

これは "I'm happy too."とは違うだろう。「私も嬉しい」、これは純粋に、他に何の段階も踏まずに自分の感情を伝えている。「私も」としつつも、あなたが嬉しいことと、私が嬉しいことは、完全に独立して聞こえる。

 

 

しかしもって、「私が嬉しいならあなたも嬉しいでしょう」というアイデアには、1番目より2番目の英語表現が適用されると思うのだ。

「私の嬉しさはあなたの嬉しさ」という拡大化された自己の表れは、I'm happy for you.にはとどまらない、それよりも空恐ろしい愛の大前提がある。

 

だから「今日、虹を見たよ!」と嬉しく思い、それを単に共有しようとする人は、それを聞いた相手も同じように嬉しくなることを期待するのだと思う。

虹を見てその発見に、私が嬉しくなったのなら、あなたも嬉しくなるのが当然でしょう、という考え方。

これはほんとうに、小さい頃に愛されなければ生まれないものだろう。性格というよりも特性と言ったほうがいいような、紛れもないギフト、ほとんど先天性の性質。

 

 

 

というのも、自分にとって嬉しいことがあったとき、それが相手にどんな感情を与える(恐れがある)か考えないまま、言葉に出すタイプの友達がいるのだ。

その子のことを想像しながら書いている。

 

これは欠点だろうか?

あらゆる面で欠点たりうるだろう。

でも、美点にもじゅうぶん、なり得る。

 

その子は、私に嬉しいことがあり、私が心から嬉しさを表現すれば、一緒になってまったくもって、同期して嬉しくなってくれるだろう。

そこのイコールに疑いの余地がないのだ。友達が、自分とは関係のないところで嬉しい何かを経験したなら、当然私も嬉しい!と。

そして私が不当な目に遭えば、心から憤ってくれるだろう。友達の不利益=自分の不利益、瞬間的に、そのイコールが成り立つ。

 

なんて純粋な同期、シンクロだろうか。

極めて女性らしい、と私は思う。

多くの男性にはあり得ないんじゃないか? 誰かの利益や不利益が、そのままストレートに自分の感情に結するなんてこと。

 

この女友達のように 極端ではなくても、女性は少なからずこういった側面を持っているのではないだろうか?

ものを感じること、外的なものに敏感であること、は、女性的な特徴ではないだろうか。その特徴を持つのが男性であれ女性であれ。

 

 

もっぱら私は女性的で、心から母や、女友達の感情に同期してしまう。

彼女らの"ために"憤ったり喜んだりするのではなく、彼女らの憤慨や歓喜が、私の感情に直結するのだ。

しかし、だからといって私の歓喜をシェアしようとは考えない。悲しみを同じように感じてほしいとは思わない。これが私のズレであり、妙に男性的な部分でもあるのかもしれない。

 

それぞれみんな、生きてくる道のりで、ジェンダーロールをそのときどき選び取って、自分のものにしなければならなかった、そのようにしてきた、と思う。

そのなかで いろんなズレが生まれたり、まったくズレなかったりして、それが今の多様性をつくっているもののうちの一つなのかもね!💡

 

ぜんぶ、ズレでしかないと私は思う。

ズレや歪みが、人間としての興味深さや臭さを醸し出すのではないか。