週末のたびに、なんがしか酔っ払っていて、いろいろとリセットされてしまう。
お酒というのは、毒だ。怖い飲み物だ。
父は大酒飲みだった。
一緒に暮らしていた頃、しばしば父は酔っ払って帰ってきた。
あんまり覚えていないが、なんだか怖かった。普段から無口な父が、よく素性のわからない父が、もっと知らない人になったようだった。
彼の話によると、高校生のときからたらふく飲んでいたようだった。
母は風物詩のようにお酒を飲む。夏の暑い日にタンクトップでプルタブを開け、美味しそうにグリーンラベルを飲んでいたのを覚えている。今も、ビールの登場が然るべきと思われる、たとえば餃子を食べるときや旅行先、お風呂のあとなどには嗜む程度に飲む。
私。私はこの頃、自分がほんとうにお酒を飲むことが好きなのか、よくわからないでいる。
外で美味しいものを食べるときには、アルコールが欲しくなる。運動や、それでなくても移動で汗をかいたあとに飲む冷えたビールは美味しい。
しかし、酔っ払うまで飲むことが果たして必要なのかどうか、疑問に思ってきた。
私は素面でもじゅうぶんに本音で話せる友達としか、この頃会っていないのだ。
酔った弾みで好きと伝えてしまうような男の人もいない。
たしかに、ちょっとしたゲームをして、罰ゲームにテキーラを飲む、周りの人たちがどんどん酔っ払っていって、自分もふわふわと酔っ払う、あの感じは嫌いじゃない。
むしろなにがなんだかわからない、なにが楽しいのか、楽しくて飲むのか、飲むから楽しいのか、お前が誰なのか、私が誰なのか、わからなくなるあの感じは好きだ。
しかしあんなものは頻繁にやるもんじゃない。
こないだ、といってもこの土曜日、久しぶりにべろべろになってしまい、道行く人に話しかけたり噴水の淵に寝っ転がったり、甘いものを食べて食べさしを鞄に突っ込んでどこもかしこもべたべたにしたり、友達とふだん吸わない煙草を買って吸ったりした。
私はいちばん酔っ払うとこのフェーズに入る。
食べ物を食べすぎたり、帰りたくないとごねたり、街全体と友達になりたがったり、街全体を自分の部屋にしたがったりする。
まああれもたまには、いい。久しぶりにやったけど、やってるときの自分は楽しそうだったし、友達も呆れつつおもしろかったと言ってくれた。でもやっぱり、たまにでいい。
もはや私は家で一人飲みをしない。
映画を観るときも、ライブ映像を観るときも、YouTubeを観るときも、シラフだ。
感情を増幅させなくても、感情が爆発しているからか? 同情をし倒す(し倒す……)からか?
お酒は飲めないより飲めるほうが楽しいとは思う。しかしお酒を飲むことというのは、自分が自分の責任を放棄する時間が増えるということだ。
コントロール下から脱するということだ。
獣が顔を出すということだ。
綺麗にお酒を飲めないおじさんおばさんは、嫌いだ。
私は綺麗に、まだ飲めないけど。
飲み方というのは、失敗を重ねてちゃんと身につけていかなければならないのだと思う。
若いうちに酷い飲み方をして、馬鹿なことをしでかさないと、年を重ねたときに情けない飲み方しかできないのだと思う。
でもほんとうに、そんな積み重ねは必要なのだろうか?
お酒って、コミュニケーションが下手くそな種族が、それでも繋がりたくて、土地とも土地の人々とも繋がりたくて、無理して飲んでたものだから、いまの若者は飲まない人が多いんではないか?
インターネットな現代で、必須ではないのに対面で繋がりたがりの人が、飲むのではないか?
ちょっと時代遅れだね。
実際に会ってお喋りして、一体感を加速させるためにお酒を飲む。
それを私は好きだが、う〜ん、好きな人が減るのもなんとなくわかる。わかるし、不器用な人が減ったというのはまあ、喜ばしいことなのではないか………?
みんなでお酒飲みたいな。
結局はまあ、そう願う私は時代遅れなままなのですが〜。