広告【25/31】

 

 

 

電車の中吊り広告は、好きだ。

〇〇展とか△△物産展とか、乗っている電車の、沿線の情報が詰まっている。

博物館や百貨店、地方紙などのアナログな情報がそこにはぶらさがっている。

夏に見るとなんとなく風流。車内のクーラーに揺れるさまが。

 

駅というのはいい場所だ。私はわりと好きだ。人が多すぎることに関してもある程度は寛容になれる。なぜなら、"地元に密着している"という感じがするからだ、電車は線路の上しか移動できず、駅はその場所の地名まで冠しているのだから、当然ではあるけれども。

 

掲示板がなくなる可能性について思いを及ばせると、泣きたくなる。

あれがすべて電光掲示板になればもう、この世の終わりだという感じがする。しかし、そんな未来はお話にならないほど近くに迫っているのだろう。

あれが最悪なのは、ほんとうに忌むべきなのは、情報の取捨選択がこちらに委ねられていない点だ。

ああ!!!憤りが脚に響く!!!なんてことだ!!!トラジェディーだ!!!悲劇だ!!!!!

LEDライトは鮮烈だ。人々の目を引く。ただでさえなにか視界の中にちらちら動くものがあればそちらを見てしまうのが人間のさがだ。常に動き続け、新しいものを映し続ける電光掲示板は、人間にとってとても魅力的なものなのだ、だって見つめているだけで情報が入ってくるから。

その情報の質といえばまちまちで、興味深いアナウンスも無用な広告も混じっている。そのすべてがパッパッと一瞬で移り変わり、過ぎ去っていく。何も見ていないのと一緒なのだ。

あんなものに広告代を出す企業は馬鹿だ。じっさい、紙を刷ったほうが100倍有用だと思わないか?それもたくさんではなく、効果的な場所に貼り付ける分だけ。だってそれは物質で、だれかが取り除かない限りそこに存在し続けるのだ。電気を消しても、他のデジタルの広告が、電脳空間の向こうに去ってしまっても。

 

とはいえ、音や光を使いでもしないと皆の目を、スマホから上げることはできないのかもしれない。

風に揺れる中吊り広告を楽しみにしている、駅の通路の掲示板の変化にちらっと目を向ける、人間は少数派なのかもしれない。

でもじゃあやっぱり、このまま人間はなにも考えずにビビッドなものばかり摂取するようになって、栄養もない情報をただ体に通過させるだけの儀式ばかり毎日繰り返すようになるのだろうか。

 

広告が悪いのではないと思う。たしかに、テレビCMには心底うんざりするけれども。

デパート9Fの北海道展や、南港の恐竜化石展の、心躍る工夫のふんだんになされた紙媒体の広告は、日本的で、文化的で、的確で美しいとさえ思う。

悪いのは映像だ。それも無意味な映像。動くだけの動画。取捨選択さえ許さない、余裕のない情報の暴力。

いや、悪いのはそれですらないのかもしれない。受動に慣れた私たちか。