見る【24/31】

 

 

私は、昔から、目がチャームポイントだねと言われて育った。

目が大きい、まつ毛が長い、左右対称の目だ、など。他の部位については、高校のときに「首だけは細いよな」という褒め言葉を、もらったきりだ。

だからだと思うのだ、私がすべての動作を、目でするのは。

 

話を聞くのは耳だ。聴覚さえ話し手に向けていればそれでいいはずだ。なにも顔を話し手に向けて、「聞いていますよ」という顔をしなくてもいいはずだ。

話をするのは口だ。口さえ動かしていれば、聞き手には伝わる。

触るのは手だ。物体を見なくても、触れれば感触は伝わる。温度も湿度も、皮膚を通して感じるものごとだ。

匂うのは鼻だ。源が定かでなくとも、鼻に香れば香りは香る。嫌な匂いも然り、すべては漂って過ぎ去る。

味わうのは舌だ。味蕾が味を感じ、しょっぱいとかすっぱいとか美味しいとかまずいとか、感じることができるのだ。

 

しかし私はそのすべてを、圧倒的に視覚を通じて行う。

話を聞くときには、話し手を見つめずにいられない。音の発生源というより相手の目を見て、あなたの話を聞いていますと、あなたの言うことに注意を向けていますと、発信しないと気が済まない。というか、ほとんど、目で見ないと耳に入らない。

話をするのは口だが、話すとき、相手を見なければ気が済まない。とはいえ対面で見つめられると視線に圧倒され蓋をされて話せなくなる。

触るのは手だが、対象を見ることで触れることもできると思う。目でなにかを撫ぜることはじっさいに可能であると思うのだ。それは想像力と直結している。視界が脳を通ることで、触覚にまで拡大する。それは不可逆だ。見るより先に触ることはとても勇気がいることで、恐ろしいことだ。

匂うのは鼻だが、何かの香りが、匂いが鼻を刺せば、その発生源を見つけずにはいられない。花の香りや物の焼ける匂い、にんにくの香りやドクダミの匂い。ぜんぶ、納得のいく物事を見ることと、セットでないと終われない。見ることは根拠になる。香りは刹那的で不確かだから。

味わうのは舌だが、食べ物を目で見なくては私たちは何を食べているのかわかれない。テレビやスマホを見ながら食事をしたら、食べたという実感が湧かずに食べ過ぎてしまうという。コース料理が美しいのは、目で見ることも食事のうちだからである。

 

 

と、ここまで考えて、気づいた。

目で見ることがなにより大事なのは、すべてを凌駕するのは、私だけの話じゃない。

すべての感覚は、やはり視覚を伴ってこそ、説得力を持つのだ。

私のチャームポイントが目でなくとも、私は視界を頼りに生きたのだ。

 

視覚に関しては、『バードボックス』というパニック系の映画がおもしろかった。サンドラブロックのやつ。好き嫌いが分かれるかもしれないけれども。