輝くクイーン

 

 

今が楽しい。

幸せだと言わない理由はあるが、でも、今ほんとうに楽しい。

 

些事へのイライラ、将来への不安、家族の悩み、お米に混ざる小石のようなネガティヴはもちろん、ほとんどの日本人と同じくらいある。少ないくらいかもしれないけど。

 

でも、なにがこんなに私を楽しくさせるかって、会う友達がいることだ。

自分と同じ年齢の、同じ性別、共通の話題を持ち、よく食べよく笑いよく喋る友人たち。都会には食べるものも見るものも観るものもたくさんあり、楽しむための材料は尽きることがない。

そして彼女らについて私は、いっさい悩むことはない。

なんでも話して笑いにできるし、気合を入れて家で用意をするほど褒めてくれる、新しい髪色・新しい服・新しい靴を褒めてくれる、なにも、心配することはない。

学生時代のように、明日会えば無視されるんじゃないか、はみごにされるんじゃないか、全員に嫌われてるんじゃないかとドキドキしながら会う必要はない。

自分の好きな男を奪われるんじゃないかと(そんなビクビクは環境上ほっとんどないが)怯える必要もない、気分を損ねてしまったんじゃないかと思うならただ訊けばいい、次の約束は唐突に取り付ければいい。

恋人のいない友達が多いので、ただ男について笑いにすればいいだけだ。恋人のいる友達についても、私に恋人がいないのでそれが共通の話題になることがない。たまにするデートみたいなものたちについて、他の話題と同じようにまな板に載せて面白おかしく料理して笑えばいい。

恋愛について悩まなくてよいということは、恋愛によって楽しいことが増えることと同じかそれ以上に、心善いことだ。心が健康でいられることだ。しょうじき言って、素敵なことだ。

 

だから今が楽しい。いちばん楽しい。

友達も何に縛られることなく出てこられる、私もやるべきこととやりたいことがたくさんあり、ほどほどに忙しく、そのなかで友達と会うことをこんなにも楽しみにでき、楽しむ。

 

でもひとりの友達が言った、「今しかないから」と。「これから先家庭を持てばみんなこんなには遊べなくなる、自由なのは人生で今だけ、お金も身体も自分のためにあるのは今だけだから精一杯楽しまないとね」と。

 

そんなのはほんとうに嫌だと思う。楽しい今を楽しいと思うだけの切実さ、それと同じくらいの深度で、嫌だと思う。

今だけだから今を楽しまないといけないなんて、そんなに悲しいことがあるだろうか?

今の楽しさがこの先も永遠に続くなんてとてもじゃないけど信じない、信じないけど、今この瞬間以外の生活について、思いを馳せて今を諦めるなんてしたくない。楽しかった時代があったなんていう過去に、今をしたくない。

 

今が今じゃなくなることが悲しいと思う。

自分も周りも変わらざるを得なくて、細胞が日々生まれ変わるように、太陽が傾いていくように、線路がすり減るように、ハワイが日本に近づくように、死骸が土に分解されていくように、私たちの中身も、生活も、環境も、ずんずん変わっていく。

変わらないわけがないのだ。変わらないような見た目の生活を送っても、私たちは不可逆。過去は保存可能ではあるが、常温ではもちろん、とってはおけない。

 

今が今じゃなくなることなんて考えずに楽しくいようよ。

お願い、楽しさを楽しむだけの享楽的な女たちで、いてくれ私のために。

なんて言えません、私には彼女たちの未来への保証は不可能なのだから。

 

それぞれこれから、友人たちは、お気に入りの男か女のたったひとりを見つけて、それぞれに楽しみを閉じ込めていく。

閉鎖的で不健全な喜びに身をひたひたに沈めて、小さな箱のなかの甘くて苦い時間に肺まで侵され息ができているのかできていないのかもわからなくなっていく。幸せと不幸の違いが曖昧になり、存在か不在かに判断基準が置き換わってしまう。

そしてその箱からひとたび出たとき、やっと、外の空気にどんなに酸素が濃いか自覚して、思い出すのだ。その空気のなかで当たり前に金色の呼気を破裂させ笑っていたことを。はちきれそうな身体で闊歩した、独立したひとりの王女様だったことを。その喜びを。輝きを。

そしてそれなのにまた窒息するための箱に戻っていく。

 

 

 

悲壮だ