催眠術師と呪術師と魔法使い

 

綾は部屋に掃除機をかけながら、考える。洗面所では洗濯機がごおごおと音を立てて回っているが、その音はここまで聞こえない。掃除機も負けないくらい、大げさに音を立てて働くからだ。

綾には、減点方式で恋愛をする友達が多い。

ちょっといいなと思った人とデートをして、食べ方やお金の出し方、話し方や聞き方、歩き方や話し方、さまざまな指標をクリアすると点は維持され、しなければ点数は引かれていく。ときどきずきゅんと一発で100点を叩き出すようなポイントが隠れていて、男性がそこをうまく突くとどうやら問答無用で好きになれる場合もあるらしい。それでもやっぱり減点の箇所は残り続けて、答え合わせのときに、やっぱりここの失点が不合格に響いたのだと、女の子たちは口にする。

へえ〜、恋愛ってそうなんだ〜というのがそれに対する綾の感想。そういうふうにでも人って恋をできるのか、つまり、ひとごと。綾のはぜんぜんそういうふうじゃないからだ。

 

日曜日の昼下がり、本当ならソファに沈んで過ごしたいのに、綾は晴れた空を見ると動き出さずにいられない。

それでシーツを洗濯機に放り込み、日々の生活のやり方のせいで、部屋に溜まった埃を掻き出して綺麗に体裁を整える作業に精を出す。

 

綾の恋愛は、ひとことで表すと催眠術方式。退路を断ち、そこにしか行けない気持ちに自分で自分をさせてゆく。そこへはずるずるだらだらと時間をかけてたどり着いてしまうときもあるし、急にテレポーテーションしてしまうときもある。

どのみち同じだ。私とその人。綾のしたいように振る舞い、したいように話すと、いつのまにか周りに他の人がいなくなり、人気のない場所でその人とふたりぼっちになっている。その人に檻を作られてしまったわけでも、その人が居心地の良い家を持っているわけでもないのに、その場所から勝手に出られないような気持ちになる。

その人しかいないのだと思い込む。

それはもう一世一代のパワーでもって。

そうしたら不思議なことにその人も、綾しかいないという催眠術にかかり出す。綾こそがその人をどこへでも連れて行き、その人こそが綾をどこへでも連れて行かれると、綾にはその人がいないと生活さえできないと、思い込んでしまう。そんなことはないのに。そうだ、大事なのはいつでも、「そんなことはない」ということだ。

ほんとうはいつでも人里へ戻れるのに、さみしいふたりぼっちの丘から離れようとしないでいる、いつでも戻れるのに。

 

そうして、その思い込み、つまり催眠術が切れてしまうと(その原因はいろいろある。内外からの刺激や満ちる不健康な膿で泡はぱちんと弾ける)、恋愛は終わる。

つまり催眠術は幻なのだ。私にはあなたしかいないなんて幻想を信じ続けるにはエネルギーが要る。長く一緒にいるとそれが切れてしまう。

 

お尻のポケットに入れたスマートフォンが震えた。けれども掃除機の音と振動で、一度めは気づかないふりをする。

もう一度鳴る。綾は決して掃除機を止めたりしない。私には生活がある、と思う。生活を邪魔する権利なんて誰にだってないはずだ、と心を強くして思う。

三度めの通知音でもう、綾はたまらなくなる。立ち尽くしてしまいそうになる。なんにも手につかないという気分になる。人里の生活から背中を突き飛ばされ、追放されてしまったときのような。

 

綾はいま、過去最大の術のなかにいる。

生まれたてのときから始まった大がかりな催眠術だ。

ほんとうには綾とその人は、何も知らないどうしなのに、催眠術のなかにいるから、何でも知ってるふうに話してしまう、振る舞ってしまう、目で話して口を閉じてしまう。思い込み以外のなにものでもない幻のなかにいる。

綾は会ったそばから最大の愛を送り込んでしまって、その人はあろうことかそれを受け入れている。普通の人ならバランスを崩して倒れてしまうだろう質量なのに。こんなにおかしなことはない。

この催眠術は解けるだろうか。綾だってみんなのように、減点方式で恋愛をしたほうが、現実的なのは知っている。生活を営むことができて、長いこと一緒にいられて、フェアで対等で、イーブンで合理的なことはわかっている。

でも綾は自分を追い込むやり方しか知らない。そういう遺伝子を持っているらしい。

父母ともにそうであるように綾は思う。というより母がそうであるから、父もそうだったのだ。この催眠術は女の人がかけるのだから。 

 

いま、不便なことに、綾の催眠術の相手は、忙しくて会ってくれない。そのために術者である綾ばかりがどんどんぐるぐると術にかかっている。それは苦しく辛いことだ。信じる者が少なければ少ないほど、その幻想は脆い。脆い幻想を信じることは、人を狂人にさせるのだ。

だから綾は気づけば、もうこの術中から抜け出したいと心の底から願ってしまう。つまり友達に会ったり、働いたりして、なにかの渦中にいるとき以外のときに。お飾りなしの自分でいるときに、すうとその気持ちが心に差す。

あの人が、へんな術を使うな!このエセ催眠術師め どっかいけ!と殴ってくれれば私も覚められるのだが、と綾は思う。しかし、それさえしてもらえないので体力だけが奪われていく。

この術が呪いに変わる前にどうにかしてくれないと困る。こないだも憎みかけたのだ。あぶないあぶない、実態のないものは怖い。

愛を愛とわかりながら受け取ったのだから、術を逃れるのにもそれなりの代償のあることをあの人はわかっているのだろうか。

 

洗濯機が業務終了の合図を鳴らす。

綾はそれに気づかないままで、こんどはキッチンの床にとりかかる。

 

男には魔法も術も呪いも使えない、すべて女が使うのだ。強い力は怖いのだから、女が怖いというのは当たり前のことだと綾は思う。

 

 

 

おわり:)