重なる

 

 

 

「この本はおもしろかったよ、恋愛は大人でないとできないって話だった。」

マッチングアプリで会った男と本屋に行った。待ち合わせ場所が大きな本屋に近くて、会ってなにをするかなんて決めていなくて、なんとなく店に入ったのだ。

アケビは読書が好きで、どうやら男も好きなようだったが、べつに確認しあったりしなかった。気詰まりな雰囲気をどこかへ発散するためでもあった。

ハブ駅の巨大な本屋にはいつも人間がたくさんいて、書籍が売れないなんて嘘だと思う。そのなかで、平積みされた本を指差し、男は言ったのだった。

「恋愛は大人でないとできないって話だった。」

それは真っ白な装丁の本で、帯に人の顔の写真なんて載っていなかった。アケビは好感を持った。

男はなおも内容の説明を続け、うまく要約できたことに勝手に満足していて、そういったこととは別のところでアケビは今度この本を買いにここに戻ってこようと思った。面白そうだし、なんとなく自分に必要なもののような気がしたのだ。

そのときたしかにアケビは世界を憎んでいた。

なにもかもが自分のせいであることは自明であるのに、どういうふうに考えたって結局は自分が悪いのだというところにたどり着くというのに、それでも、世界を憎んでいた。

みんながもう少し優しくなればいいと思っていた。みんな同士で優しくし合えば善いし、自分にももっと優しくしてくれればいいのにと思っていた。

その男とは、何度か会って寝た。

フィーリングが合う、という感じでも、一緒にいて楽しい、という感じでもなかった。でも、笑顔はかわいかったし、知的な話は聴いていて面白かった、それに、そんなふうに静かに話す男とはあんまり会ったことがなくて、興味があった。あったから、寝て、そして、寝てしまうともう会わなくなった。

向こうが、もう興味を失ったのだろう、と思った。べつに大丈夫だ、世界というのは私への興味をいつも急激に失う、私だって世界への興味を無責任に失うことばかりなのだから、でも、アケビは、でも、と思った。でも、失って少し悲しい。その男を得たと感じたことはなかったのに、おかしなことに失ったとは感じるのだ。

またちぐはぐな感じ。自分と、自分を包む周りの環境が、足並み揃わずぐらぐらする。

アケビはワルツを踊るのに、世界はエイトビートを奏でている。

自分が悪いということと、世界が優しくないということが、どうにもリンクしなかった。

ずっと遠近感の狂った地図の上を歩いていた。

近くにあるものが遠くにあって、遠くにあるものに突然手が触れてびっくりして飛び退いてしまう。

思えば、じつは、世界が自分だったのだ。世界は、自分で恣に捉えた虚像であり、外側だと思って見つめていたものは、ずっと内側だった。

近くにあるものに手を触れて温度を感じ、遠くにあるものを観察して判断する、その尺度さえ持っていなかっただけだった。

あんまりにも簡単に手に入ってしまうように思えたそのなにもかもが、実は手中にはなかった。

今まで寄り添ってくれたそのほとんどが、ほんとうには自分の手のなかにはなかったのだ。愛したことなんてなかった。はじめから手のなかにあるもの以外を。ほんとうの外側から来た人たちを。彼らは愛してくれたのにも関わらず。

 

白い装丁の本には、愛について書かれてあった。

まだ読んでいる途中であるけれども、男の言っていたことはちょっと違うとアケビは思う。

人を愛するには成熟していなければならない、とは書かれてあるが、大人にしか恋愛はできない、とは書かれていないのだ。

成熟するということが大人であるということと同義なら間違ってはいないのだろうけども、でもふたつの意味はアケビにはやっぱり違う。

そして、その意味についての議論を、それぞれが持っているパーソナルな辞書のすり合わせをさえ、せずに男と寝てしまったことを後悔した。

勝手につくったその男という名前のラベルを貼ったお手製の虚像を、その男本体と一緒くたにしてするそれは恋愛ではなくて、ただのトラウマとの対峙、ただの過去への陶酔、ただの自己愛の煮凝りでしかないのだ。

知らない人を知っているふりをして恋をしようとするなんてこと、もうしないでおこう、と思いながらアケビはひとりで同じ本屋をぶらついた。

そこには日本の偉い人の書いた本、海外の有名な人の本、差別的な描写がいきいきとあふれる本や革新的で誤読のないよう気の配られた本、絵がたくさんついた本や英語で書かれた本がある。

人がたくさん歩いていて、みんな本を探していて、あるいは本を手に持っていて、用事ありげに忙しない。

みんな、ショッピング中というより市場への買い付けのようだ、とアケビは思う。

 

知らない人と会うことは、読んだことのない本を読むのと似ている。

時間をかけなければほんとうの意味では捉えられないところが、実体があるのに一目ではすべてが見られないところが、一対一であるところが。

少なくとも得た。失ったと思った虚像よりも多くのものを、そして、これからもそうしていくのだろう。