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去年 大失恋を経験した私ですが

いま、まだまだぜんぜんそれを引きずっています。

 

私が失ったのは、好きだった人との間の真実だけではなかったのです。

私が失ったのは、男の人への絶大な信頼や信仰でした。

概念だったのです。彼は私にとって、彼ではないもっと普遍的ですべてに宿る、父性や母性のような根源的なものだった。

この人なら絶対に大丈夫だ、この人が私にいてさえくれれば大丈夫になれる、私も大丈夫になれる。

根拠のないこの、どこまでいっても独りよがりな信仰が、彼ではない他の男の人にも宿っていて、それで私は男の人を信じられたし、だから、裏切られるだなんて思ったこともなかった。男の人が私を裏切り得るだなんて思ってもいなかった。

 

それはふつうの恋愛にだって宿っていましたし、オタク活動にも適用されていました。

男の人というものを絶大な伸るか反るかのぎりぎりの全力で、信じていたので、男の人というものがそもそも、私には魅力的でした。

自担に対する気持ち、大きな大好きの気持ちと絶対に裏切らないという信頼、人格に対する(根拠のない)心酔も、やっぱり男性性というものへの憧れからだったのでしょう。

この人はいつも大丈夫だし、この人を好きな自分は大丈夫。この人を目指していれば私は大丈夫でいられる、強い安心さえ生む盲目的な信仰。

 

しかし男性性への揺らぐはずなかった信仰が、失恋で崩れ去ったために自担への気持ちも薄れてしまいました。

私にはお父さんがいてくれないし、私には好きだった人がいてくれない、私にはもちろん自担がいてくれない。

私の人生にはじめから男の人がおらず、私は男性性に憧れてそれこそが安心の要だと思っていたのに、どうやらそうではない。男性性なんてなくても、お父さんがいなくても幼馴染がいなくても、むきむきの筋肉がなくても信仰の対象がいなくても、どうやら生きていかなければいけない、男の人のいない布団は寒くて、とてもじゃないけど凍えて眠れず、けれども私には布団乾燥機があり、お布団を電気の力であたためて眠られる、そういうふうに、人生も、そういうふうになっているんだと思いました。

 

だから、「マイラブ、絶対裏切らないから」だとか「I won't let you down」だとかの歌はもう信じません。つい3ヶ月前くらいまでは絶大な信頼を寄せていた言葉です。

「次は車でどっか行くか」も、もう一度信じてしまうような馬鹿なことはしません。「かわいいね」が何を意味するかなんて考えません。

私を好きになってくれる男の人はいるでしょう。私が好きになる男の人もたくさんいるでしょう。でもそれがなにかに繋がるなんて、間違っても、私を大丈夫にしてくれるだなんて思ってしまいません。

一緒にいてくれるなんて思ってもみないし、誰かとの未来なんてないし、間違ってもなにかを求めたりしません。

好きになった人と旅行に行く想像をしたって、野菜を買いに行く想像はしません。

 

私は信仰を失いました。

お父さんがいない代わりに、私の人生にぽつぽつと現れた少ない数の男性たちは私を甘やかしてくれましたし、ときたま大丈夫にしてくれさえしましたが。

彼らは私と食器を選んでくれたり、ネックレスをくれたり、野菜をさえ買いに行ってくれたし、どこへでも一緒に、願えば、行ってくれましたが、それはその都度すべて考えられないことだったし、私には起こり得ないとずっと思っていたことで、そして、それが起こったことのほうが奇跡で偶然でラッキーだったのです。

びっくり。もうまったく好きじゃないけど人生のある一点で、ものすごく好きだった人たち。

あんまりにも過去で、私の概念くんとともにそれらもやっぱり遠くへ追いやられてしまう。ぜんぶ、男の人というもの一緒くた、にして、遠ざかってしまう。

 

私は注意深くなりました。老いた鼠のように、何者をも信じません。

 

女性性をフェティシズムに置き換えて考えます。そういうものを提示して、得られる男性性をフェティシズムとしてぱくぱく食べてぶくぶく肥ります。

老いて肥えた鼠になります。チュウ