英語を話すのは苦手だ。
よく言われるように、英語と日本語では、主語や目的語、とにかく文章を構成する要素ぜんぶが、ばらっばらに真逆だ。
「お醤油とって」と言いたいときに、
「Soy source」から話しだしたら、もう、詰み、という感じがする。
だから、というよりは単純に英語で物事を考えたり話したりすることに馴染みがないからなのか、
英語で話すと、物事の周りをぐるぐるぐるぐる、迷子になるような話し方になってしまう。
話の筋が、本当に言いたいことから、どんどん離れて行ってしまうのだ。
それは話の脱線とか膨らみとか、そういうことではなくて、たとえばグルグルバット。
あれをして平衡感覚を無くしたとき、ほんとうには真っ直ぐに進みたいのに、目はゴールを見据えているのに、足が勝手に斜めに進んで行ってしまう、「ああああ〜、違う、そっちじゃない!違うのに……!」。あの感じ。
だから、愛聴しているポッドキャスト、「バイリンガルニュース」(名前の通り日英バイリンガルの2人が二か国語でニュースについて話す)のなかで、彼らが自らの体験について、心情について、英語でパシーン!と言い表すのを聴くと心から感心してしまう。
英語うまい!すごい!とかじゃなくて、
「日本語以外の言語でも、言いたいことって言えるんや!!!」
なんて自己中心的な考え方だろう、と自分でも自分に失望するが、感じてしまうものは仕方がない。
日本語というのは、あんまりにも私の思考回路にぴったりしっとりしっくりきすぎる、いや逆だ。
私の思考回路こそが日本語でできている。単純な構成要素が、原子のひとつひとつが、まったくの日本語100%でできている。厳密には私の日本語でできている。私の日本語は、私の母の日本語と、私の読んだ本の日本語、私が見て聞いて吸収したすべての日本語からできている。
だから、私が「あーーー!うまいこと言うた!こんなん思ってること100%表せてる、100、100やぞ!天才!」って思いながら何かを言ったり書いたりしても、他の人には他の人の日本語があるので、それは100%ではぜったいに伝わらない。
使う言葉が似ている人とは、80%くらい、繋がれるのかもしれないけど、家族以外と成せる同期は、そのくらいが限界なんじゃないかな。
言葉は恣意的で、独自の世界をつくってしまう、とても閉鎖的な媒体だけれど。
100%伝わらないからと言って、私の素晴らしいと思ったものを、伝えることはやめられない。
70%くらいで受信してくれた誰かが、それでもその人の言葉の世界のなかに、私の言葉を入れてくれて、噛み砕いて素敵ななにかに、誰か自身のその人のためだけの、素敵ななにかにトランスフォーム!してくれたらいいなと思う。
私の話す言葉は、私の書く言葉は、すべてが私100%なのだ。ブランドの要素が同じ人がいても、配合が違う。
だからこそ母親と妹と、話すとすべてがツーツーで伝わるわけだし、母が「あれみたい」と何かを指して言うとき、「ああ、〇〇ね」の答えがすぐに出てきてしまう。
言葉という地を共有しすぎると、もはや言葉は要らなくなるのかもしれないね。
そしてどれだけ離れる時間が多くても、大学の友達とはいくらでも話せる気がするのは、
私たちは言葉のそういう性質を知っているからで、誤解を知っているからなのかなと思う。
なんてったって日本文学専攻やからな😤
言葉というのは面白いし、正しく使いたいけど、伝えるためにはルールも破りたい。
でも、破りすぎると美しくないから、だから文学は芸術なのかなあ。
じゃねっ