女の子たちと、タイプの男の話をしているときがいちばん楽しい。
どんな人が好き、どんな仕草にきゅんとくる、どんなふうに好かれたい、
あーわかる、それやばい、ありえへん!、好み真逆やん!、私たちって同じような男が好きよね〜。
不毛というかなんというか、ほんとうになんの毒にも薬にもならない空論たちはでも綿菓子みたく甘かったりして、やみつきになる。
大事なのは、そのときに思い浮かべる"特定の誰か"がいないことだ。あーでもないこうでもない、言い合いながらなにも像を結ばないところが楽しい。
そして私の好みのタイプというのは、こうだ。
身体が大きい(縦にも横にも)、お酒がたらふく飲める、煙草を吸える、ちょっとへん、男性的である、フェロモンがでている、優しい、目は外斜視気味で甘い、タフで傲慢、表情があまり変わらない、安定して堂々としている、毛が濃い、男友達グループでいるのがいちばん楽しい、ちょっとチャラい、鼻が高い、たくさん食べる、男らしい匂いの香水をつけている(か、何もつけていない)、アメリカ的である、ことなど……
どうしてだかわからないけども、ここ数年で完全に固まったこの、好みのタイプのいうのは厄介で、とくに「ちょっとへん」の部分には頭を悩まされた。
「ちょっとへん」であることはかなり、私のなかで重要であったので、「この人はちょっとへんかもしれない」と思うと、かんたんに興味が出てしまうのだ。誰であれその男に。
そして、ふつうの世の中で初対面から「ちょっとへん」な人は、たいてい、かなりへんなのだ。
だから何度か失敗した。失望した。
寝た人も寝なかった人もいるけれど、そこに大した差異はなくて、ただ一夜にして飽きるというだけだった。
また、「身体が大きい」にフィーチャーしても、難しかった。
なぜなら、単純に身体の大きい男性たちは、身体の小さな女の子を好むからだ。彼らはとってもオーソドックスで、頼りなく、なんだか大きく膨らませた風船と話しているみたいだったし、向こう側からも私は魅力的に見えないようだった。
そしてお酒をたらふく飲める男の人というのはどうやらこの世のなかあんまり多くなくて、
男性的なフェロモンを醸し出している人なんてほとんどいなくて、
そもそもみんな私よりお尻が小さく、脚が細い。
だからもうずっと私のタイプのほぼど真ん中はジェシ〜ちゃんだった。ほんの数週間前までは。
会ったことはないけれど、煙草を吸わないところと、いっぱい食べないところと、痩せてしまったところ、目が甘くないところ以外では、私の好みにどんぴしゃりだった。なによりも、お酒が飲めるというのは最高の美点だ。社交的なのも。常に堂々としていて傲慢なのも。
おまけに歌やダンスがうまくて、顔もいいときた。最高の男の人だ。今もぜんぜんそう思う。いちばんだ。
そして私は彼に会った。
7年ぶりに見た幼馴染は、なんとほとんど100%、私の好みの男性だった。
いっぱい食べる、と、ちょっとチャラい、以外ぜんぶクリアしているのだ。
これはもうほんとうに意味がわからない出来事だ、自分の、人生に、こんなことが起こるなんて。
ほとんど不条理だ、理不尽だ、と思う、叶わなかった初恋の、相手がまさに自分の好みを体現したような見た目と性格をしているのだから。
なんの因果なのだろう。どういうつもりなのだろう。ほんとうに私は、彼とは無関係の場所で生きてきて、彼も私とは無関係の場所で生きてきて、それなのに、彼は私のタイプの男性の特徴をまるまる持っているのだ。
私はだから今、片思い中であり、それは、でも、好きだから片思いなのではなく、好きにならない理由がないから片思いをしているに過ぎない。
このブログを近くか遠い将来に、読み直して、そのときに二度ともう彼に会えない状態にあったとしても、私はこんなふうに彼について話したことを後悔しないと思う。
人生というのは常に避けられないことの連続だ。すべてのことが、なるべくしてなる。
そこには抗うことのできない流れがあり、その流れは私たちを遠いところへ追いやってしまう。遠いところがいいところか悪いところか、それは行ってしまったときに自分が感じるふうに依る。
物事は、つねに手に負えない。手に負えると思うことは、あんまりにも卑しいことだ。私たちがすべきなのは、最初の勇気を出すことだけだ。
次のデートの日程も、これからのことも、ぜんぶ、なるようにしかならない。彼が私のために時間をとってくれなければ、もう会えないし、一緒にどこかへ行って、致命的に嫌われてしまえば、一緒には生きられない。
彼が私を今、少なくとも気にかけて、どこでなにをしているのか、知りたいと思っていてくれることは、奇跡に近い、とても嬉しいことだけれども、それを私は望まないし、私は彼がどこでなにをしていてもかまわない、彼が教えてくれるなら嬉しい。
私は彼とどこへでも行きたい、暑いところも雪のなかも、紅葉のなかにも海のそばにも、風の強いところも車でしか行かれない場所も、温泉も果樹園もブランドのお店も、お高いディナー、雑多な居酒屋、ひとりではとても食べられないようなゲテモノを出すお店にも、近くにも遠くにも発展途上国にもヨーロッパにも、どこへでも行きたいけれども、彼がそう思わなくても平気。
私が彼を好きな気持ちと、彼が私をどう思っているかは、まったく関係がないからだ、私には。
だから、私が彼を好きな気持ちが、彼を男として自信過剰にさせ、尊大にさせてしまっても、それは私とは関係がないことだ。好きだと視線で態度で、好きという言葉以外のぜんぶで、示してそれが伝わって、しまっても私はなんにも怖くない。これは取引でも、駆け引きでも、契約でも戦争でもなんでもないから。
興味があるのは、人はこんなふうに愛されたらどうなってしまうのかということだ。
話題の如何に関わらず、目を見つめて話を聴かれて、隣にいることが幸せだと伝えられ、あなたからのなんのアクションも期待しないと言われ、そしてただ満ち足りられてしまったら、どんなふうになってしまうのだろうか。
私なら困り果ててしまうけれども(げんに彼のときたま見せる受容は恐ろしい)、彼はどうなのだろうか。彼も恐ろしくなって私を遠ざけてしまうだろうか。それもぜんぜん、あるのだろうと思う。そんな反応は当たり前だと思う。拒否してくれてもいいと思うし、もしかしたらそっちの方が健康なのかもしれない。
私の母は私と同じくらいロマンチストなので、「あなたたちはお互いにしか理解できない世界を持っている感じがするものね」と言っていた。それがどのような根拠も持たないにしても、とにかくそんなふうに。
しかしもって、そんなものが本当にあったとして、そのようなものに閉じこもってしまえば、そのことよりも不健康なことはないと思う。
すでに私は友人から、たくさんの不理解をもらっているし、それらは完全に正論で、私を慮った言葉や、世間の男女の通説に則ったセオリー、自分だったらに置き換えた感想だったりと色は違えども、正しい。彼女たちが正しいことがわかっているから、私は不健康な私の態度や彼の態度の話をするのだろう。彼女たちが社会で、私だって社会に、馴染めないけれど馴染もうとすることを、やめたくないから。
でもわかんない、私はディズニーランドには、彼と行きたくはないと思ったのだ。
なにかを一緒に感じるなんて、時間の無駄だと思った。
映画館にも行きたくないし、同じ本も読みたくない。
創作物は、虚構は、邪魔だ。私は彼と何かを見たいのではなくて、彼を見たいのだ。そのためにはショーもパレードもうるさいだけだ。うるさいというよりも、なににもならない。ほんとうは大好きなはずの虚構の世界が、邪魔になる、無意味になる、それ以下になる。
なんて気分の悪いことだろうか。私には創作のなかにしか居場所がなかったのに。
なんていうのはぜんぶ幻想なので、彼はどこかで女をつくり、逃げていってしまうかもしれない。
ぜんぶ嘘でした、というネタバレさえなしに、去ってしまうかもしれない。
そして数ヶ月後に、結婚しましたとSNSに、ぴらぴら投稿するかもしれない。タキシードを着て女の人の細腰を抱いているかもしれない。
私のことなんて、なかったみたいに、いなかったみたいに、私がすべての人にとってそうであるように、私を透明にしているかもしれない。
そう思うことは保険ではなく、それでもいいのだ。
彼が善良であることも、傲慢であることも、優しいこともタフなことも、少し弱いところもぜんぶ、私の妄想で、幻想なのだから。
とにかくもう私には、好みの男性のタイプの話はできない。
それがただひとりの人を指してしまうから、悲しみや寂寥やたくさんの雑念が混ざり、それらは明確な像を結び、影を生み、話し相手を居心地悪くしかさせなくなってしまったから。
まあでも、平たく言えばべつに、ライアンゴズリングとジェシ〜ちゃんが永遠の、私の好みのタイプではあるんやけど。