本を読む贅沢【28/31】

 

 

 

本を楽しむ最後の世代っていつなんだろう?

 

昔は子どもが小説を読んでいたら、小説は毒だ、馬鹿になる、と言われたらしい。

少し前は、テレビは毒だ、馬鹿になる、と言われた。ゲームは子どもをバイオレンスにさせる、と言われた。

いまは、どうなんだろう?

テレビを観る人が減ったので、あまり取り沙汰されないし、子育てにはYouTubeが必須のように見受けられる(なにしろ横にしたスマホにかじりついて、静かにお行儀よくしている子どもは多い)、ゲームは脳の発達を助けるらしいし、小説を読んでいるだけで活字に触れて偉いと言われる。

 

映像は強い。ヒエラルキーの頂点に君臨している。なにしろ、思考の必要がないからだ。受動のなかの受動。使われる技術は最先端で、たくさんの人が関わり、巨額のお金がかけられる。

リアルを凌駕する映像は2Dを超える。

 

VR技術が発展したらもうリアルって終わっちゃうんだろうか?

働くとき以外、人間はVRの機械(言い方がダサすぎる……)を常に装着しているんだろうか。

というよりも、もうリアルは終わっているんだろうか? リアルの、現実世界の順位って人間のなかで、もうぜんぜん上位じゃないんじゃないか……。

じゃあみんなが求める虚構の世界ってなんなのかっていうと、もちろんそれはもう活字媒体ではないのだ。

私たちが小学生の頃から、活字離れは叫ばれ、"読書タイム"とかいう、強制的に読書をさせられる時間が設けられていたわけだが、離れてだめなことがなにがあるんだろうか?

 

想像力って要るか?

個人が想像する前に、誰か大きな団体が、それを具現化して映像にしてくれているのに。

頭のなかにジャングルを思い描くとき、もう私たちの世代は、ちゃんとジャングルにいるべきものたちを思い浮かべることができるだろう、間違ってもジュラ紀の昆虫や恐竜など、現実から逸れた突飛なものを想像しない、だって映像でジャングルを観たことがあるのだから。

頭のなかの想像の世界が現実に近づき、そこにファニーで固有の余剰分がなくなってきた、じゃあどうして小説が要るのか。

 

情報を得るのだってニュースやラジオで十分だ、文字だけで表さないといけないほどインターネットの容量は少なくないから、ぜんぶ映像媒体でオッケーなのだ、もう、文字はいらない。

あまりにも個人的すぎるのだ、閉じたメディアだ、シェアが難しい、文章を読むということは翻訳だから、なにかを読めば自らのなかの言語に変換して噛み砕いて保存する、それをまた外に出すときには元の形とは違っている、翻訳されたものは分かりづらい、こんなに単純明快なものが溢れる世の中で、分かりづらいものは要らない。

 

それに、本は1000円以下で一流のものが手に入る、一流のものでそんなに安いものはない、なんて言われたけれど。

今なら、月額を支払えばいくらでもお金のかけられた、一流の、映像を観ることができる。

コスパの良い趣味としてもその座を降りているのだ、小説は。

 

学校から図書館がなくなって、コンピューター室(タブレット室?)ばかりになるのも時間の問題だろう。

文章を読むことが受験にとって大事なのは変わらなくても、図書館なしにでも日本語は読める。物語なしにでも読解力は、高められるのだろう、知らんけど。

 

だからぞんぶん、贅沢として、小説を読もう、古い娯楽を楽しむ最後の世代が私たちミレニアルかもしらないし。

私たちにしかわからない面白さを、脳みその形がまったく違う世代とシェア不可能な楽しさを、個人的に楽しもう。

エクスパンションとしてのスマートフォン、それと変わらない、でもゲームカセットみたいに前時代的な文庫本たち。