男の人に接する機会は少ない。
接する機会というと語弊があるかもしれない。しかしこの使い方はやめません。
人と人が接触する、というのはつまり、第一層目の殻をゆっくり、ふうわりと破るということだ。
社会で生きるときに、傷つかないように一枚、マスクのように被る殻を。
それ越しに会話をしたとしても、人は摩擦しない。接しない。接続しない。
だから、接する、というのはつまり、社会の輪から抜けてあなたとわたしのカンパニー♪になるということだと思う。
そういう、あなたとわたしのカンパニー♪に、男性と、なることは極めて少ない。
長いタームで少ない。なので、私には、ほんとうに、男性というのは理解ができない。
個人対個人で接するとき、私が女性という役を演じるために、相手も男性という役を演じる。
そうするともう、発する言葉や出来事の描写すべて、まったく別のコードに置き換わってしまうのだ、ふだん、私が使うものとは。
どう感じて欲しくて、何を言って欲しくて、その話をするのかわからず混乱。
プライドが高いのか低いのかわからずに混乱。
触れてもいいのか悪いのかわからずに混乱。
率直に物事を訊いてみて気分を害するのか否かわからなくて混乱。
私は相手が言って欲しいことを言いたいのであるのに、相手がなにを言って欲しいのか、男性相手では普段よりも倍増しで、もうほんとうに、わからない。
なにもかもが、私の手に負えず、従ってもう、酔っ払ってしまうしかない、という感じになる。
どうせわからないなら、酔っ払って遠慮なんて取っ払ってしまおうと、ヤケになるしかないのである。
そうするともう、お腹を殴ったり脂肪を摘んだり肩を組んだり、やりたい放題になるわけである。
相手のプライドがズタズタになろうがなんだろうが、お構いなしの友達扱いである。
そう、もう、ほんとうに、これは、
わからないのだ、相手を友達とすることが失礼になるのかどうかも。
モテない女の悲劇だ。