ゼネレーション【29/31】

 

 

私たちの世代は、否定しない。否定をすることが差別に繋がり、誰かを傷つける。いくら自分の常識の基準において相手が"非常識"な態度をとったとしても、否定せずにそっとしておく。多様性を学んだ世代だから。ニューノーマルの存在を、まだぎりぎり柔らかいといえる脳で、とりいれたから。

ジェンダー差別や職業差別、人種差別も、なしだ。多様性を尊重し、誰も否定しない。誰しも、自由に生きる権利があると考えるようにしている。

 

しかし私はおかしいと思うのだ、昭和以前の考えを持つ人に対して、「それはだめだ」と言ってしまうこと。

主に女性差別的な発言に対して、「それってだめなことになってるんですよ」と注意する。注意しなくても、嫌な顔をする。

「今の世の中では、それは差別なんですよ」「だめですよ、あなたの考え方は。」

でもほんの20年ちょっと前、私たちが生まれるか生まれないかくらいのときには、その発言はオッケーだったのだ。

言ったらだめな言葉なんてほとんどなかった。

外国人は外人で、目が見えない人は盲、重度の外斜視の人はロンパリ、挙げたらキリがない差別用語たち。でも、当時はそれらは当たり前に使われていた言葉だった。

それらに対して「その言葉!だめなんですよ、使っちゃあ」と注意するのはただの言語統制だ。なんでだめなのか? その言葉には差別的な、侮蔑するような響きは宿っていないか? 自らが宿していないとしても、受け取った人はどう思うか?

その言葉を使う人が、そのことについて考えてから、それからその人のその言葉を禁じないといけないんじゃないか。

 

だって彼らの時代には、当たり前のことだったのだ。

40を過ぎて独身の男性は社会的に問題があると思われた、当たり前だった。30過ぎても結婚しない女性は行き遅れだった。当たり前だったのだ。そういう社会だった。

それを、鬼の首とったように、グローバル化が進んだからといって、規制しようとするのはなんだか、おかしなことじゃないか?

 

その時代の人たち同士のコミュニティでは許される言葉を、私たちのコミュニティのなかで使ったからといって馬鹿にして笑うのは差別じゃないのか?

誰でも、なんでも、あり得るなら、存在していいなら、多様性は彼らの世代にも適用されるのではないのか。

もちろん、こちらを傷つけない限りは、というのは、前提であるが。

 

私たちは誰をも否定しない、はずじゃないのか?

無条件で否定するのは暴力やさまざまなハラスメント、その行為自体だけなんじゃないのか?

人間自体の意地の悪さや気持ち悪さでその人を嫌うのは、当たり前のことだけれども、世代由来の無邪気な攻撃性なら、人格否定までしなくてもいいんじゃないかと思う。

 

難しいな

決して、ハラスメントを受けた人を軽んじるわけてはないのです。

傷ついた心がひとつでもあれば、その行為は否定されるべきなのです。

でも、どこかで、考え方の違いだ、世代の常識の違いだ、とどこかで、寛容になることはできないのだろうかと思ってしまう。

みんなが少しずつ席をつめていけば、座れる誰かだっているはずだと、考えてしまう。

 

いちばん微妙な激変の時代、20年後には今のニューノーマルがノーマルに置き換わり、たくさんの人がもっとやりやすくなっているだろう。今、やりにくいマイノリティ中のマイノリティや、おじさんおばさん達が、世代ごと移動して社会から引退したり社会の中心になったりしているだろう。

今がいちはん微妙なのだ、たぶん。

 

だから20年後の未来に、私たちの意見が反映されるような政治のために今選挙にだって行かなければならないし、今諦めてはいけない点や譲るべきでない主張があったりするのだろうな。