サンキューオール

 

 

 

6月毎日更新を目指していたわけですが、ついに一昨日、31本目を更新して、フィナーレを迎えました。

しかし、気付いたのですが、西向く侍、6月はぜんぶで30日しかなかったですね。なので、一昨日のやつは完全にエクストラでした。

でも、皮肉なことに、一昨日のピカソ展の感想の日記がいちばん、ここんとこでは楽しく書けました。

今回、できるだけ正しい文章で書くことを心がけました。正しい、というのは、でも私のルールと国語のルールの、ぎりぎり重なるベン図の真ん中部分くらいの文章、という意味に過ぎませんが。

 

私は話すのが苦手です。言葉が発するそばからこんがらがって、くちゃくちゃにダマになってしまうからです。伝えたいことと伝えられることが、話すうちにどんどんどんどん乖離していって、ねじれの位置にいってしまうのです。

自分のことを話すのは余計に苦手です。主観が究極まで突き詰められて、誰にとっても面白くない話になるのが明らかだからです。

母は話すのが上手です。どこかで仕入れた情報を(主にソースは『おはよう朝日です』です)、聞き手に楽しくなるように話します。周辺情報から話し、結論がどこに終着するのか、ぎりぎりまでわからない、不快でないくらいに焦らす話し方をします。

私にはそれをできないですが、せめて時間がある程度与えられる、文章ではそれをしたいなと思いました。この1ヶ月で。

 

そのために、少し勉強しようかなという気持ちになりました。文章の書き方を。

楽しさと美しさと本能だけで文章を書く私は、それこそが芸術だからルールブックなんてbullshitだと、文章に書き方があってたまるかよと、思っていました。まあ今も思っていますけど……。でも、なんて驕った考え方なのでしょうね。

ピカソは「ルールを知らないとルール外のことはできないぜ」みたいなことを言っていたそうです。そして、私は、「絵ってそうなんやな〜」と思っていました。「たしかに、描き方とかパース?とか?なんか、奥行き?とかめっちゃありそうやしそれ知らんとあかんねんやろな〜」と。

でも、文章もそうですね。

日本語を基にした文化が存在する限り、文章の書き方には一定の解がある。そして、その解どおりになにかを書く必要はないが、解を知ってわざと外すのと、知らないでがむしゃらに自己顕示するのでは、まったく違う。

私は現代文学のなかでも、昭和期(たまにそれ以前)の作家のものばかり読むので、勉強もしやすいかもしれません。資料が膨大にあるのですから。

 

とにかく1ヶ月(と半月)、付き合ってくれてありがとう友たち。

スターくれたり、読んでるよと言ってくれたり、してくれたから自信を失わずにいられました。そしていつもそうです。少なくとも、私の自己満足が誰かをエンターテインすることができているということが、私の支えになっています。

いつもです。常に心にあります。見ていてくれていたことが。それがこの先途絶えても、見てくれていたという事実が私を助けます。

私は刹那主義です。今の一瞬こそが永遠と同義であることが世の中にたくさんあると信じている派の人です。

 

いつもありがとうね、これからのことはわからなくても、ありがとうは変わりません。

 

そうして唐突に締めくくる