カオス

 

 

 

みんなの安心は、どこにある?

安心は、所属から生まれる。組織やシステム、集合体の一部になることが、安心を生むのだ。

チョウチンアンコウのオスのように、大きなメスの身体にぴったりと接着、のち、吸収、一部になる。それが人生に安らかさを生む。

 

生まれたほうの家族と共に寝起きし、生活を共有している人、

のちに出会い、得たほうの家族と暮らしている人、

または週に5日職場に行き、エブリデイライフのほとんどの時間を会社の人と共有する人、

やはり所属しているという観念が生まれるのは、過ごした時間の長さからなのかな。

 

そのすべて、他薦でそこに存在しているという証明になる。

大なり小なりあれど、組織されたコミュニティの一部になるということは、あなたはここにいていいですよという承認を得ている、得続けている、ことになる。

そのなかで役目を果たすこと、それが人々の自信になる。

 

ところで私はカオスが好きだ。

みんながてんでばらばらに何をやってるのか何を喋ってるのかそれぞれぜんぜん理解し合っていないお酒の席や、冷蔵庫にお豆腐と並んでリモコンが並んでいるような状況が好きだ。

だからなのか、単に私に能力がないからなのか、私の家には秩序がない。

システムがまるで構築されていないのだ……。

ものの居場所が定められていないため、とりあえずの分布地帯のようなものによって、汚部屋をぎりぎり避けられているような有様。

 

所属が苦手であるというのは、自己紹介のように何度も何度も言ってきたが、所属と共にシステムも苦手らしい、どうやら。

物事が整理されずにそのままあるような、形に嵌められず、ラベリングされず、わやわやとあるような状態。

そのような、広場にみんないるような、状態は不安を生むだろう。居場所が用意されていないために、どのように振る舞えばいいかわからなくなるだろう。げんに、私の棚からも、タオルがはみ出し、本が飛び出し、めちゃくちゃだ。

でも、前回のブログで述べたように、みんなが"ある"、存在する、ためには不可欠だと思うのだ。

カオスが。

 

私は、このところとても、パーティーを開きたい。

そこには、私を好きな人も、私が好きな人も、私を苦手な人も、私が苦手な人もいてほしい。

もちろん私を好きで私が好きな人には近くに、私を苦手で私が苦手な人には遠くにいてほしいし、居心地の悪さは避けたい。

しかし、挨拶くらいはしたい。私の苦手な人とも、「お〜元気??よかったよかった、じゃあハブ ファン!」くらいの声かけは交わし合いたい。私の苦手な人のうち、私の好きな人と仲良い人もいるわけだから、そこはそこで、楽しく時間を過ごしてほしい。

知らない人も来てほしい。知りたいから。私の好きな人や苦手だけども時間を一点分共有した人の、友だちや恋人。そんな人との時間の共有は、想像しただけでわくわくする。

 

そこでみんなは所属を捨てる。

いつもどこに住み、どんな生活をして、どんなスーパーでどんなお肉を選び、値段の高騰した野菜を諦め、パスタをたくさん買い、たまにコロッケを買い食いする、とか、ぜんぶ放棄。

どこで働きどうやって職場に行き、上司の性別、ランチの手持ち無沙汰、コーヒーの不味さぜんぶ放棄。

カオスのなかでこそ、ラベリングを捨てて私たちは自由になれる。

 

私だって、所属に安心する。

実家に帰れば、ずっとこの家で暮らせればどんなにかいいだろうと満ち足りた気持ちになり、ひとりの家に戻ると2日間くらい憂鬱の海に心がさらわれる(それは本当に大きな波の、じっさい、海なのだ)。

アルバイト先に正式に所属できたら、この人たちとファミリーみたくなって、いろんなことをシェアできるんだろうな、と思うとその寂しくなさに心を奪われ焦がれてしまう。

 

でも私は蓮っ葉な女なので、カオスを愛しているのだ。

だから、パーティーを開いて、みんなにいてほしい。

私を一部にせず、私の一部にならず、でも笑い合える距離でみんなにいてほしい。

結婚式やお葬式なんてエクスキューズなしに、みんながみんなの成長と変化に、乾杯できればいいのにって思うのだ、みんなが。

 

いつか私がパーティーを開いたら、みんな来てくれるかな?