めくるめく

 

 

もうほんとうに心のなかがその人だけでいっぱいになって、日常生活もままならないような恋が始まってしまいました。

私のなかにこういうエネルギーがあったのだということに驚いています。こんなふうに日常生活までを熱でどろどろに、溶かしてしまうような気持ちを私は、知らなかった。

じっさいに知らなかったでしょうか。恋をしたことはあるはずです。それなのに初めてだと思う。

まあ椎名林檎も歌ってるしな。「女の子はいつでも 今が初恋でしょう」と。椎名林檎はほんとうに正しいことを言う。

しかし、なにも手につかずに、ただ部屋のなかで座って、目を開けているのに開いていないような顔で、ものを話すあの人の目を、薄い唇を、よくわからない趣味の話や、言ってくれて嬉しかったことごと、香水の匂い、煙草の煙を、思い出すだけで何時間も、経っているなんて異常事態、経験したことがない。

こんなふうに身も背もなく、誰かを好きになったことはない。

 

これがどんなふうになるのか、どんなふうな恋なのかも、わからないのは、私たちの境遇が特殊だからだ。

彼は私が20年も前に、彼を大好きだったことを知っているから、私には彼を好きな気持ちを隠す必要がない。

ふつうだったら ぎょっとするような要求も、難なく飲まれてしまう。びっくりする。私が彼を好きなことが前提の、おかしなお願いがするりと受け入れられてしまう。

遠慮なんてする必要ないとか、そんなふうに考えなくていいとか、言われたことがないことを言ってくれる。わかってた、って言われるともうひとたまりもなくて崩れてしまう。

 

どこの高校に行ったかも知ってたよ、制服姿見かけたから、とか

連絡くれて嬉しかったよ、とか

私を思い出してくれて嬉しい、と言うと、思い出すというより別に……と濁された言葉が嬉しかった。

 

飲み屋さんで、私に断りもなく煙草を吸いに行って。なんとなく彼が話してた隣の男二人と、なんとなく話した。

「ご夫婦ですか?」って訊かれて本気で喜んでしまった、まあ彼がおじさんに見えたから仕方ないのかもやけど、カップルじゃなく、ご夫婦なんて!

片割れが煙草を吸いに行って、もう片っぽと喋ってるとき。なんもおもしろくない、彼の境遇や連れとどんな関係か、とか。

ふと後ろの喫煙スペースを振り返ると、ぱちっと目が合って、彼はぜんぜん笑ったり、反応したりはしなくて、私も、そのまままた知らない男の人に向き直った。

あのとき、彼は私を見てくれていたのだろうか。果敢に知らない人と話す私を、気にしてくれていたのだろうか。そう考えるとたまらない気持ちになる。私のことを放置して、男の子だけの話を、道端で煙草を吸いながら、しつつも私を見てくれていたのだろうか。

戻ってきて、その知らない男の人と話し込んで、私に背を向けたときに、

気を遣って知らない男の人が私にも話を振ってくれて、でも私には理解のできかねる話題で、そのときにこっちを見もせずに、「男の浪漫やから、女の人にはわからんよ」って言ったとき

ちょっと悲しかったけど、私はこの人たちと別に喋らなくていいんだと思った。

知らない、社会のなかの、有象無象の、ひとつふたつ。私となんの関係もない人たち。

だから私は安心して、紅茶に添えられた角砂糖になった。ただ角ハイボールを飲んで、社会と彼が話を終えるのを待った。

「行く?」って声がかかるまで。「うん」って言ってしばらくして、話が終わってお店を出て。

社会が「さようなら、気をつけて! お姉さん、"気をつけて"ね!」って言ってきたけど、私になにを気をつけることがあったんだろうか。

お店を出ても彼はぜんぜん、謝らなかった。他の人といっぱい話をしたことなんて、ぜんぜん謝らなかった。私を放置したことなんて、ぜんぜん。

謝る必要がないことを、彼がわかっていたのが、ほんとうに不思議だと思う。私は傷ついてなかったし、でも、他の女の子だったら、悲しくなって怒ってたかもしれないのに。

 

そしてアフターオール、私は、

「次は車でどっか行くか」と、提案のようでもなく決まりごとかのように、独り言めいて出た言葉のことをぜんぜん信じていない。

私は何度も、幸せだと伝えて、そしてあの人も、今日は幸せやったと言ったけれど、私はぜんぜん信じてない。

ほんとは最初は、というか会うまでは、未来につながればいいなって、思ってたけど、もういい。

幸せだったから、べつに、それ以上を望まなくても大丈夫。

大好きで恋をしているけども、もういい。箱のなかに仕舞える。もしかしたら時間がかかってしまうかもしれへんけど、まあ1か月くらいかけて押し込んだら仕舞える。

私はふだんはとても欲に素直で貪欲だけれども、彼の前では食事ひとつままならないのだ。

なにも要らない。要らなくて大丈夫。

ああほんとうに幸福だった。

あんなに素晴らしい夜は今までなかった。街ゆく男性がすべて顔を持たなくなってしまった。

これからどうやって生きていこうかな