ひだまり

 

 

 

私はもともと植物だったのだろうかと、たびたび考える。

喜びを感じるのは乗り物に乗っているとき、なにかを待っているとき、なにもすべきでなく空気を感じていられるとき。すべて、それに許される時間が長ければ長いほどよい。

 

アメリカをひとりで旅したとき、乗った長い長い時間を走るバス、決してコンフォタブルではなかった座席に、埋まるようにして眠り、外を眺め、おかしを食べてまた眠ったイヤフォンなしでの18時間。

不本意にも行かなければならない病院の、人のひしめく待合室で、ひたすらに自分の呼ばれる番を待つなんのためでもない1時間。

友達と飲みすぎた二日酔いのお昼、ベンチもない都会でコーヒーを手に手に植木のそばに腰掛けた計測不可能な時間。

 

あるいは船に乗りエンジンの爆音の下で歌うその終わりの見えた必ずどこかへ到達するそこまでの限られた時間。

いつ出発するかわからない飛行機への搭乗を待つどよどよとやる気のない服を来た人たちのなかにうもれて過ごす無の時間。

お店に入るにも博物館に行くにも中途半端な時間に動き出してしまい、ぽっかり空いた20分を潰すためだけに座ったベンチで聴く鳥の囀り。

家族のお墓参り、遅い時間で他にお参りの人はいなくて遠くで聞こえる国道の排気ガス、風に揺れる色鮮やかな花々。

 

マゾヒスティックな時間の消費に心が緩む。

少しも能動的でないその行動ともいえない行動のなかになにかをそれでも受信しようとする卑しさ、そこにこそ満足を見出してしまうそれは豚の脂身みたいな下品な贅沢だ。

植物的である、いるだけで満たされようとする、目で見て、目で見ただけでいようとする、くせに動物的な余分をも欲しがってしまう。

 

とはいえだってそんなふうに植物めいた顔でぽかぽかと太陽のしたでとか人々の間でとか服をきちんと着たり汗をかかないだりしていられることも好きなのだ、温度のない皮膚でいるのは清々しい。

中身には確実に内臓脂肪を蓄えているというのに私は芙蓉の花を身体に咲かせたい、髪の毛とかまつ毛とかそういう肉体的でありすぎない肉体の付属品にだけはさやかな緑を宿らせたい。

そしてそういうぱさぱさとじっとりの間のしっとりした葉の手触りを育てるためにただ、座ったりなんだりして日光を浴びる時間が好きなのだ、自分を、罰さないでもいられる時間が。