「会えるよ」

 

 

毎日毎日、ここ数年は、飽きもせずに村上龍江國香織ばかり読んでいる。

2人とも著作の多い作家だ。たくさん書く、ということはエネルギーに溢れているということだ。文章は身体的で、少しもぐじぐじしていない。作品には本当のことだけが書かれてある。登場人物はよくお酒を飲みもりもり食べる。そしてみんなあんまり働かない。

私はこの2人の作家の作品に、多分に影響されている。とくに江國香織を読み始めたのは大学入学前なので、物事(とくに恋愛)というのは常に小説先行だった。

小説のなかで読んだことのある出来事、人生のなかのインシデントが、自分の生活のなかにじっさいに起こり、そして彼女の彼の作品には真実が書いてあったと、二度三度それ以上の回数読んで思う。感じる。

私のここ8年の人生はすべてそんなふうだ。人々と関わり、学生時代を終えて、いろいろ起こってたくさんものを感じる、そのすべてが新鮮であるとともに少しの時間が経って振り返ってみれば「知ってる」ことだったと思う、「知ってる」ことと「自分が体験する」ことは違うのでもちろんすべてがフレッシュなのだが、それでも私の人生には正しいとされる人物像が経験する正しい恋や食事や失恋や友人関係やお金の使い方や働き方(あるいは働かない生き方)がある。

 

そして今日、村上龍の初めて読む著作『テニスボーイの憂鬱 上』を読んでいたら、逆のことが起こったのでびっくりした。

展開に言及するのでネタバレになってしまうが、私の周りに村上龍を読む人はひとりもいないし、なにしろ私たちの生まれる10年も20年も前に書かれた小説だから心配はいらないだろうと思う。

主人公のテニスボーイは30歳くらいの土地成金で、結婚して子どもがいて、モデルの愛人がいる。大好きな愛人とデートを重ね旅行へ行き大好きなテニスをしてお酒を飲み高いホテルに泊まる。愛人は美人で健康的で、同時にいろんな面を持っていて少しミステリアスだ。たとえばセックスのあとに、

「シャンペンだけが人生って思う?」

とテニスボーイに訊いたりする。あとで意味を尋ねたテニスボーイに、自分が田舎から出てきたこと、モデルを始めるのが遅かったこと、モデルとして東京に来て本物のシャンパンを初めて飲んで感動したけどキラキラしたものに振り回されないようにと思ったこと、を話す。そしてそのあと、

「でもね、シャンペンだけが人生かも知れないって思う時もあるのよ」

と言う。

テニスボーイは、

「ああ、そっちの方が陽気でいいかもな」

と答える。"シャンペンだけが人生か"について彼はたびたびその後も考える。

デートを重ね、気持ちは昂って手放したくないと思うが、関係には終わりがくる。テニスボーイ自身の愛情にも翳りが見え、一方的な関係に愛人は摩耗し始める。関係が深まるにつれて当然、家に行ったり生活の話を聞いたりして、テニスボーイにとっての愛人の像は変わってくる。それでも、愛人が会うことを拒否し始めるとテニスボーイは焦る。

ケータイなんてなくて、路上の電話ボックスからテニスボーイは電話をかける。家の電話は使えない、もちろん。

会話のなかで、会えないことについてテニスボーイは不満を漏らし、愛人は疲労を滲ませる。そんなの無視してテニスボーイは言う、

「正直に言うけど」

「何?」

「会いたいんだ、冗談抜きで、すごく会いたい」

情熱的でさえある、まっすぐでロマンチックな言葉に愛人は

「会えるわよ」

と返す。

私はその言葉を読んだときに本から目を離し頭を抱えた。

「会いたい」に「会えるわよ」が返るというのはもう、まぎれもなく純粋にただ単に、終わりなのだ。

私はこれを知っている。

 

まずもって「会いたい」なんて言う言葉はもう、絞り出して、あるいは滲み出て、しまう切実な言葉だ。言う方はなにもかも放り出して言っている。プライドなんて脱ぎ捨てて雨のなか裸で言っている。それが片思いでも両思いでも同じだと思う。「会いたい」、あなたに会いたい、今私はあなたに会いたい、次もあなたに会いたい、それ以上に切実な言葉はこの世にはない。明らかな上下関係が生まれる。その言葉に対して「私/俺も会いたい」が返るまでは。

然るべき返事が返ってしまえばそれは、単なるコミュニケーション、やり取り、ラリー、再確認、になる。だからOKだ。でも「会えるよ」、これはだめだ。

私は前回の失恋で(というより人生のなかで惨めな失恋、真正面からの失恋、というのはその一回だけなので私が失恋の話をするときはtheの冠詞がつくわけだが)、このやりとりをしている。そしてそのときの絶望的な気持ち。というよりその時は頭がぼやぼやに惚けていてその返事に一抹の寂しさしか感じなかったのだが、じっさい振り返って考えてみると絶望的なやりとり。

私の、すべてかなぐりすてて、人生のなにもかもをつぎ込もうと思って、現実から目を背けて願望にすがりついて、絞り出した「また会いたい」への相手の「会えるよ」。

あああれはやっぱり終わりだったのだ。あの返事がもう"終わってる"んだと、テニスボーイたちのやりとりを読んで思った。

客観的に、でも小説を読んでるのは自分の意識だからある意味で主観的にも、やっぱりこのやりとりって終わってる。成立していないのだ。会話として、関係として。

そして村上龍もこのやりとりの経験があって、たぶん言う側言われる側どちらからの経験もあって、これを書いたのだろうと思うと少し救われる。だって「会えるよ」なんて、言ってしまう側からは譲歩さえした、できるぎりぎり優しい、言葉なのだろうから、それが終わりをこんなにも決定づけるとは思いもしないのだろうから。

このところの人生で、小説があとから私の人生を証明することはなかったので、びっくりした。私もいっぱしに歳を重ねたのかもしれないと思った。いろいろな気持ちを経験したのかなと。でも少しなんかおばさんになったような感じもして、スレたような気にもなった。

 

また、

人生とシャンペンについて、テニスボーイはひとりでこう考える。

そうシャンペンだけだ、そう答えればよかったとテニスボーイは今思っている。シャンペンが輝ける時間の象徴だとすれば、シャンペン以外は死と同じだ。キラキラと輝くか、輝かないか、その二つしかない。そして、もし何か他人に対してできることがあるとすれば、キラキラしている自分を見せてやることだけだ。キラキラする自分を示し続ける自信がない時、それは一つの関係が終わる時を意味する。

純然たる真実だ、と思う。私が考えていたことが証明されているのか、それともたんに私がこの考えをなぞっていたのか、わからなくなるほどに真実だ。

そして驚くべきことにこれを考えているときにはまだ、テニスボーイは愛人の家に電話をかけ、会いたいと日々の中でしみじみ考えているのだ。愛人は「会えるわ」と、言わされたに過ぎない。「会いたいわ」と言えないように口を塞がれたに過ぎないのだ。

 

村上龍はおもしろい。何度も言うが本当のことだけが書いてある。

本当のことには、それが男性的なことであれば放送禁止用語だってたくさん含まれるし、暴力と肉欲と酒と煙草が含まれる。本当のことはだから今の世の中、疎まれる。だから流行ってないのかなあ。

でもさ、『サンクチュアリ』というドラマを昨日観て、そこには乱暴な言葉がたくさん出てきておっぱいもお金も煙草もお酒もいっぱい出てきて、登場人物はすぐ物を蹴ったり投げたりして、主人公はヤンキーで、本当のことしか言わなかった。彼は人が顔を顰めるようなこと、聞きたくないようなこと、つまり本当のことしか口に出さなかった。あんなドラマが流行るなら、村上龍を読む人がもっといてもいいのになあと思う。