10月、私はそれはもう人々と会いまくった。

幼稚園だけ同じだった幼馴染くん、幼小中と同じ学校だったけどべったり親しくはなかった女友達、小中高と同じ塾に行った女友達、中学のときの友達、高校のときからの友達、大学の友達にも会った。

私の人生におけるほぼすべての点においての知り合い、友達に会った。

そして思ったのが、幼稚園や小学校のときの知り合い、友達というのはなんかちぐはぐな感じがする、ということだ。

私たちは会ってすぐにどうしてか親しさを取り戻してしまった。会うのは10年やそこらぶりだというのに、今のステータスについてはほとんど何も知らず、他人であることは自明であるのに、恐ろしいほど親しい空気を作り上げてしまう。すんなりと相手のパーソナリティを受け入れてしまえたのだ、どの人たちとの場合においても。

奇妙なことだが原因は、「私はあなたの両親も、家族構成も家のなんとなくの場所も知っている」ということ、「私はあなたのパーソナリティの源を知っている」ということなのだろうかと思う。

どうしたって親ぐるみになる、幼少期の友人関係のなかで、私たちは彼・彼女の先天的な性格も後天的な性格も、どちらも傾向を把握し合っていた、無意識に。両親を知っているということは、フューチャーユーを知っているということに他ならない。とくにぜんいんが中流階級に属する私たちの家庭において、ほとんどが家族を引きずって背負って家族ごと生きている。必然的に、家族からいちばん影響を受け(続け)て生きている。小さな、雌雄も決まらないほど小さな頃から、だからパーソナリティの変わりようがないのだと思う。

やはり私たちは恵まれているのだろう。誰もが変わらず、そのままで大人になっているから、「変わらないね!」と驚きながら相手の核心にさえ平気で迫れる、言及ができる。

私たちにはじっさい、ほとんど不可侵な領域がないのだ。ほぼすべてを机の上に出せて、それについて説明ができる。

私たちは傷ついていないから、変わる必要がなかったから、幼稚園児のころのまま、小学生のころのまま、中学生のころのまま大人になれたのだ。

その頃のままにご飯を食べて少しお酒も飲んで、話題には多少の変化はあれどそんなものは誤差でしかない、だって外の世界の話だから私たちは爼上に載せて面白おかしく調理ができる。私たちの育った場所の、その外から来た人たちとの関わりやそれにともなう歪みや感情の動きについて、恐ろしがりながらも冒険譚を語る。

育った場所というのは未来からは変えられない、だから私たちは変わらないのだろう。