「会えるよ」

 

 

毎日毎日、ここ数年は、飽きもせずに村上龍江國香織ばかり読んでいる。

2人とも著作の多い作家だ。たくさん書く、ということはエネルギーに溢れているということだ。文章は身体的で、少しもぐじぐじしていない。作品には本当のことだけが書かれてある。登場人物はよくお酒を飲みもりもり食べる。そしてみんなあんまり働かない。

私はこの2人の作家の作品に、多分に影響されている。とくに江國香織を読み始めたのは大学入学前なので、物事(とくに恋愛)というのは常に小説先行だった。

小説のなかで読んだことのある出来事、人生のなかのインシデントが、自分の生活のなかにじっさいに起こり、そして彼女の彼の作品には真実が書いてあったと、二度三度それ以上の回数読んで思う。感じる。

私のここ8年の人生はすべてそんなふうだ。人々と関わり、学生時代を終えて、いろいろ起こってたくさんものを感じる、そのすべてが新鮮であるとともに少しの時間が経って振り返ってみれば「知ってる」ことだったと思う、「知ってる」ことと「自分が体験する」ことは違うのでもちろんすべてがフレッシュなのだが、それでも私の人生には正しいとされる人物像が経験する正しい恋や食事や失恋や友人関係やお金の使い方や働き方(あるいは働かない生き方)がある。

 

そして今日、村上龍の初めて読む著作『テニスボーイの憂鬱 上』を読んでいたら、逆のことが起こったのでびっくりした。

展開に言及するのでネタバレになってしまうが、私の周りに村上龍を読む人はひとりもいないし、なにしろ私たちの生まれる10年も20年も前に書かれた小説だから心配はいらないだろうと思う。

主人公のテニスボーイは30歳くらいの土地成金で、結婚して子どもがいて、モデルの愛人がいる。大好きな愛人とデートを重ね旅行へ行き大好きなテニスをしてお酒を飲み高いホテルに泊まる。愛人は美人で健康的で、同時にいろんな面を持っていて少しミステリアスだ。たとえばセックスのあとに、

「シャンペンだけが人生って思う?」

とテニスボーイに訊いたりする。あとで意味を尋ねたテニスボーイに、自分が田舎から出てきたこと、モデルを始めるのが遅かったこと、モデルとして東京に来て本物のシャンパンを初めて飲んで感動したけどキラキラしたものに振り回されないようにと思ったこと、を話す。そしてそのあと、

「でもね、シャンペンだけが人生かも知れないって思う時もあるのよ」

と言う。

テニスボーイは、

「ああ、そっちの方が陽気でいいかもな」

と答える。"シャンペンだけが人生か"について彼はたびたびその後も考える。

デートを重ね、気持ちは昂って手放したくないと思うが、関係には終わりがくる。テニスボーイ自身の愛情にも翳りが見え、一方的な関係に愛人は摩耗し始める。関係が深まるにつれて当然、家に行ったり生活の話を聞いたりして、テニスボーイにとっての愛人の像は変わってくる。それでも、愛人が会うことを拒否し始めるとテニスボーイは焦る。

ケータイなんてなくて、路上の電話ボックスからテニスボーイは電話をかける。家の電話は使えない、もちろん。

会話のなかで、会えないことについてテニスボーイは不満を漏らし、愛人は疲労を滲ませる。そんなの無視してテニスボーイは言う、

「正直に言うけど」

「何?」

「会いたいんだ、冗談抜きで、すごく会いたい」

情熱的でさえある、まっすぐでロマンチックな言葉に愛人は

「会えるわよ」

と返す。

私はその言葉を読んだときに本から目を離し頭を抱えた。

「会いたい」に「会えるわよ」が返るというのはもう、まぎれもなく純粋にただ単に、終わりなのだ。

私はこれを知っている。

 

まずもって「会いたい」なんて言う言葉はもう、絞り出して、あるいは滲み出て、しまう切実な言葉だ。言う方はなにもかも放り出して言っている。プライドなんて脱ぎ捨てて雨のなか裸で言っている。それが片思いでも両思いでも同じだと思う。「会いたい」、あなたに会いたい、今私はあなたに会いたい、次もあなたに会いたい、それ以上に切実な言葉はこの世にはない。明らかな上下関係が生まれる。その言葉に対して「私/俺も会いたい」が返るまでは。

然るべき返事が返ってしまえばそれは、単なるコミュニケーション、やり取り、ラリー、再確認、になる。だからOKだ。でも「会えるよ」、これはだめだ。

私は前回の失恋で(というより人生のなかで惨めな失恋、真正面からの失恋、というのはその一回だけなので私が失恋の話をするときはtheの冠詞がつくわけだが)、このやりとりをしている。そしてそのときの絶望的な気持ち。というよりその時は頭がぼやぼやに惚けていてその返事に一抹の寂しさしか感じなかったのだが、じっさい振り返って考えてみると絶望的なやりとり。

私の、すべてかなぐりすてて、人生のなにもかもをつぎ込もうと思って、現実から目を背けて願望にすがりついて、絞り出した「また会いたい」への相手の「会えるよ」。

あああれはやっぱり終わりだったのだ。あの返事がもう"終わってる"んだと、テニスボーイたちのやりとりを読んで思った。

客観的に、でも小説を読んでるのは自分の意識だからある意味で主観的にも、やっぱりこのやりとりって終わってる。成立していないのだ。会話として、関係として。

そして村上龍もこのやりとりの経験があって、たぶん言う側言われる側どちらからの経験もあって、これを書いたのだろうと思うと少し救われる。だって「会えるよ」なんて、言ってしまう側からは譲歩さえした、できるぎりぎり優しい、言葉なのだろうから、それが終わりをこんなにも決定づけるとは思いもしないのだろうから。

このところの人生で、小説があとから私の人生を証明することはなかったので、びっくりした。私もいっぱしに歳を重ねたのかもしれないと思った。いろいろな気持ちを経験したのかなと。でも少しなんかおばさんになったような感じもして、スレたような気にもなった。

 

また、

人生とシャンペンについて、テニスボーイはひとりでこう考える。

そうシャンペンだけだ、そう答えればよかったとテニスボーイは今思っている。シャンペンが輝ける時間の象徴だとすれば、シャンペン以外は死と同じだ。キラキラと輝くか、輝かないか、その二つしかない。そして、もし何か他人に対してできることがあるとすれば、キラキラしている自分を見せてやることだけだ。キラキラする自分を示し続ける自信がない時、それは一つの関係が終わる時を意味する。

純然たる真実だ、と思う。私が考えていたことが証明されているのか、それともたんに私がこの考えをなぞっていたのか、わからなくなるほどに真実だ。

そして驚くべきことにこれを考えているときにはまだ、テニスボーイは愛人の家に電話をかけ、会いたいと日々の中でしみじみ考えているのだ。愛人は「会えるわ」と、言わされたに過ぎない。「会いたいわ」と言えないように口を塞がれたに過ぎないのだ。

 

村上龍はおもしろい。何度も言うが本当のことだけが書いてある。

本当のことには、それが男性的なことであれば放送禁止用語だってたくさん含まれるし、暴力と肉欲と酒と煙草が含まれる。本当のことはだから今の世の中、疎まれる。だから流行ってないのかなあ。

でもさ、『サンクチュアリ』というドラマを昨日観て、そこには乱暴な言葉がたくさん出てきておっぱいもお金も煙草もお酒もいっぱい出てきて、登場人物はすぐ物を蹴ったり投げたりして、主人公はヤンキーで、本当のことしか言わなかった。彼は人が顔を顰めるようなこと、聞きたくないようなこと、つまり本当のことしか口に出さなかった。あんなドラマが流行るなら、村上龍を読む人がもっといてもいいのになあと思う。

 

 

ヘイルメリー

 

 

「これはな、ジョイントって言うねんや」

「このままやったらお前みたいな初心者には吸いにくいからやな、煙草の葉を混ぜるわけや」

シダがぶつぶつと説明ともつかない口調で話す。意識は手元に集中されていて、それでなくてもふだんから、オナニーみたいな喋り方しかしないのに余計に聞き取りにくく不鮮明な言葉たち、それらには意味がないのに私は一生懸命聴いてしまう。

「この紙にはノリがついとってやな、おうちょっと舐めてみろや」

ここ、とシダが太い指で紙のはじを示す。シダの指の爪は肉に食い込んでいて醜い。ほとんど削れてなくなりそうに、指の肉に埋まっている。シダは爪を噛むのだ。

私は舌を小さく出して、差し出された紙を触った。舌で触った。シダが自分も舌を出して首を振る。私は倣った。端から端まで唾液で湿った紙を素早く、シダは巻いた。

部屋は暗い。読書灯だけが点いていて夜だ。もう眠りに入ろうかというときにシダが起き上がり明かりをつけた。私のなにか計り知れない理由で彼は脂汗をかいていた。入眠という簡単に思える作業がものすごく苦になるときがあるし、そういう人もいるのだそうだ。

「キャンディみたいに捻ったら完成や、お前もう一本作るか? これ吸うか? お前まるまるやったらききすぎるかいな」

シダはへんな方言で話す。テレビで聞く大阪弁の、それもすごく昔の人みたいな語尾だけど、生まれが北関東なのでそれは大阪弁ではなくてただユニークな、歪な言葉遣いに聞こえる。しかし誰も聞きたがらないほどざらついて深い音のシダの声にはその言葉遣いが妙にマッチしていて、私はいつも注意深くシダの言葉を聴き、そしていつもと同じ調子のその声の調子に安心するのだ。

シダは私をしきりにお前、お前、と呼ぶ。おう、とか乱暴な調子で呼びかけたりする。そのぜんぶが微笑ましく愛らしいと感じることも、私はあるのだ。

シダはライターでジョイントに火をつけた。フィルターのほうを咥えて短く何度も息を吸い吐き出す。ちりちりと紙の先が燃える。赤い輪がどんどん窄められた口に迫っていく。地獄のようだと私はいつも思う。この、煙草やマリファナのジョイントが短くなっていくさまは地獄のように悪いものがどんどん迫ってくる様子のように感じる。炎も出ないのになにかが確実に燃えて無くなっていくのは見ていてどこかちぐはぐな感じがして恐ろしい。

「ほら」

妙な匂いが漂いだした。一度服についたら一生とれないんじゃないかと思うような匂い。それでも不快ではなくて、ただ異質で、異質なのに身体や植物や動物と同じリズムを持っているように感じる、異物ではないような、でもやっぱりエクストリームだというような、強烈な匂い。

私は小さな筒を咥えて、息を吸い込み、思い切り咽せた。シダが満足そうに笑っている。

「煙草の葉っぱがお前には多すぎたんか」

でも大麻草だけじゃ燃えにくいから入れなあかんのや、ほら貸してみお前、ちんたらやってたら火が消えてまう、シダはぶちぶちと話す、私は頭がくらくらした。

シダがライターをがちがち鳴らして火を点け直す。またすぱすぱと短くジョイントに空気を入れる。短いまつ毛、と私は思った。伏せられた目にびっしりとかかる、同じ長さに短いまつ毛。

私は今度は咳き込まずに、ゆっくり煙を吸った。交代ばんこにシダも吸う。お前は吸うのが下手や、フィルターべちょべちょにすんな、と聞こえる。

次第に満足が訪れる。吸い終わってシダが灰皿に短いシケモクを押し付けた。私たちはベッドに腰掛けている。私は私に足があるのを見る。足指をばらばらと動かす。その芋虫みたいに鈍いさまが面白くて、私はくすくすと笑ってしまう。面白いという、感情よりもっと爆発的ななにか、衝動に近い反射、鋭く尖った光線の塊、が私の空洞のなかをあちこちぶつかって駆け回る。駆け回っては大きくなり、ぶつかるたびに激しくなる。私はお腹を抱えて笑い出してしまう。夜なので小さな声でしかし笑い止むことなくずっとずっと笑ってしまう。次の瞬間、シダが隣にいることを思い出した。シダのてまえ、お行儀よくしようと思う。私は笑い止む。シダを見る。隣の男を見る。髪の毛がいがぐりみたいに短い。シダは笑い出した。夜なので小さな声で。私も笑い出した。ふたりでベッドに寝転がる。寝転がることが面白くて笑う。仰向けになり、仰向けになったことが面白くて笑う。それからごろんと向かい合う。向かい合うことが面白くて笑う。シダが私に布団をかける。布団をかけたこととかけられたことが面白くて、笑う。

気づくとシダは起き上がり、私の手を引いて台所に向かう。その間じゅうくすくすとひくひくと痙攣のように笑っている。私は私たちはきょうだいみたいだと思う。きょうだいみたいであることと実際にきょうだいであることの差というのはなんだろうと考える。0.1秒でそして考えるのをやめる。なにを考えていたのかを忘れる。シダが冷蔵庫を開け、笑いやんだ。

「お湯を沸かせ、2リットルだ!」

私は夜なかにお湯を沸かすということの非日常性がわからなくなっている。大きな、家にあるなかでいちばん大きな鍋に水道の蛇口を開けて水を満たす。シダが塩を放り込む。火を使うのは危ないかもしれない、と私は思う。思うそばから忘れる。ふつうだから大丈夫ふつうだから大丈夫ふつうだから大丈夫、ふつうだから大丈夫。

それで沸騰する前の鍋にシダがスパゲッティの麺を袋に残ってるだけまるまるいれた。さいきん一回しかスパゲッティをしていないからまだたくさん残っているのに。

私たちはいーち、にーい、と数える。声に出して数字を数えて、茹ですぎないように火を見張る。

シダが茹で上がったと思えるパスタの湯を切り、銀色のボウルにあけてオリーブオイルと塩をかけた、ペペロンチーノだ、と言った。私たちは並んで立って食べた。シダはお箸でずるずると食べた。私はフォークとスプーンで食べた。笑っていなかった。いちばん真剣だった。シダの、指に埋まった爪。シダの指を噛む癖は誰かがやめさせなければいけない。

 

 

 

 

 

 

 

恋はなんと孤独なものか、ということを書いた詩が自分のノートから見つかった。

ふだん、詩は書かない。書かないけど恋のただなか、私はそれを書いて、たぶん数ヶ月後この恋が終わったときに読むんだろうと思った。

 

私たち、つまり女たちはあらゆるものを共有する。あらゆるもの、適度に軽くて暗くなくて、でもある程度には真剣な話、男の人について。

しょうじき、気になる男の子とのデートの日取りやメッセージのやりとり、小さな仕草のあれやこれ、ぜーんぶ話して(見せて)共有しちゃう。私たちにはそのへんの尺度や限度、一定のラインなんてない。

 

でも、ひとたび。

ひとたび、相手の前に出てしまえば、ひとりだ。

話して笑って食べて飲んで、ぜんぶ、あらゆることが不可知で魅力的でなにをもってしてもよく思われたい宇宙人みたいな男に、たったひとりで立ち向かわなくてはならない。

なんという苦行、息の苦しくなる大仕事、デートというのは恋というのは、孤独な戦争だと心から思う。

孤独で不可逆なのだ、ひとたび冒険に漕ぎ出せば二度ともといた場所には戻らない。

恋に落ちるのは突然で、unexpected、予兆なんてどこにもなくて、急に陸地から離れてボートは大海の上、そうして二度と、戻れない。

人は恋をする前とその後ではもう別人になり変わってしまう。それがどんな恋でも、猛烈に好きになった恋でも裏切られた恋でも、実っても実らなくても実った期間が一瞬でも数年でも、関係ない、恋は恋であるというだけでじゅうぶんに人を、打ちのめすほどの力で、叩きのめすような強さで、圧倒的に、変えてしまうのだ。

 

こんなに友達とたくさん遊んでも友達はデートについてきてはくれないし、友達が私を大好きだと言ったって愛される価値があると言ったって同じように言ってくれる男はいない。

恋愛というのはしょうじき言って孤独すぎる。文句を言いたい。こんなのはおかしい。寂しいし意味不明。

だから「恋に落ちたい」だなんて望みはてんで的はずれなのだと私は前回の失恋で学んだ。誰も落ちたくて落ちない。あんなに怖い落とし穴、避けて通れるならそのほうが今の自分の身のためだ。

誰かを猛烈に求めて好きになるなんて、その誰かに好かれたくて身を捩って暮らすなんて合理的じゃないのだ。

陸地はあんぜん。女たちと煮炊きのできる、孤独を感じずにすむ、陸地はあんぜん。

 

 

ひだまり

 

 

 

私はもともと植物だったのだろうかと、たびたび考える。

喜びを感じるのは乗り物に乗っているとき、なにかを待っているとき、なにもすべきでなく空気を感じていられるとき。すべて、それに許される時間が長ければ長いほどよい。

 

アメリカをひとりで旅したとき、乗った長い長い時間を走るバス、決してコンフォタブルではなかった座席に、埋まるようにして眠り、外を眺め、おかしを食べてまた眠ったイヤフォンなしでの18時間。

不本意にも行かなければならない病院の、人のひしめく待合室で、ひたすらに自分の呼ばれる番を待つなんのためでもない1時間。

友達と飲みすぎた二日酔いのお昼、ベンチもない都会でコーヒーを手に手に植木のそばに腰掛けた計測不可能な時間。

 

あるいは船に乗りエンジンの爆音の下で歌うその終わりの見えた必ずどこかへ到達するそこまでの限られた時間。

いつ出発するかわからない飛行機への搭乗を待つどよどよとやる気のない服を来た人たちのなかにうもれて過ごす無の時間。

お店に入るにも博物館に行くにも中途半端な時間に動き出してしまい、ぽっかり空いた20分を潰すためだけに座ったベンチで聴く鳥の囀り。

家族のお墓参り、遅い時間で他にお参りの人はいなくて遠くで聞こえる国道の排気ガス、風に揺れる色鮮やかな花々。

 

マゾヒスティックな時間の消費に心が緩む。

少しも能動的でないその行動ともいえない行動のなかになにかをそれでも受信しようとする卑しさ、そこにこそ満足を見出してしまうそれは豚の脂身みたいな下品な贅沢だ。

植物的である、いるだけで満たされようとする、目で見て、目で見ただけでいようとする、くせに動物的な余分をも欲しがってしまう。

 

とはいえだってそんなふうに植物めいた顔でぽかぽかと太陽のしたでとか人々の間でとか服をきちんと着たり汗をかかないだりしていられることも好きなのだ、温度のない皮膚でいるのは清々しい。

中身には確実に内臓脂肪を蓄えているというのに私は芙蓉の花を身体に咲かせたい、髪の毛とかまつ毛とかそういう肉体的でありすぎない肉体の付属品にだけはさやかな緑を宿らせたい。

そしてそういうぱさぱさとじっとりの間のしっとりした葉の手触りを育てるためにただ、座ったりなんだりして日光を浴びる時間が好きなのだ、自分を、罰さないでもいられる時間が。

 

 

しばき

 

 

 

 

女は、「あたしにはあたしの幸せがあるし別に理解されなくたっていいのあたしは幸せなの、」と一息に言った。

そのぶつぶつとした水疱みたいに意味のない呟きを発する鮮烈な傷口のような小さな、唇に私はキスをしたいと思った。

きらきらとそれだけが生きているパーツであるかのように輝く唇。

女の毛穴の目立つ顔の皮膚のなかでそこだけが大事なもののように思えたのだ。

「あたしは、」

女は私が聞いていないということにも気づかず話し続ける。じっさい、それが肉体でさえあればいいのだ。話す自分の目の前にいるもの、が血の通った肉体でさえあれば。

「あたしはあたしらしくいたいの、それを誰にも邪魔されたくないの、あたしはあたしの好きな服を着る、好きなお化粧をする、あたしであることをやめたくないの」

女の目には力がこもっているが、それは例えば生気とか魅力とかそういうポジティブな力とはかけ離れている。

表のところだけが熱い、たとえば偽物の体温を持った精巧な猫の人形のような、温めてもすぐに冷える冬場の足先のような。

他人の頭に手をかけて水面に浮き出るような力。

「あたしらしくいたいだけなんだけどな、だめなのかな」

女はその日初めて私に問いかけた。私を覗き込む顔に浮かんだのはもう肯定しか予想していないような甘えた表情だったので私は、サディスティックな気分になった。

「らしさなんていう形骸的なものに頼っていると」

本当のことを言ってやろうと思ったのだ。

「as you areでいられるわけがないのよ。それはあなたの理想とするあなた、あなたがこう見られたいというあなたでしょう。中身の伴わないチョコレート菓子のようなものだわ、熱に触れるといっしゅんで表面が溶けて空っぽだってことがみぃーーーーーーーーんなに、露見するのよ、そうでしょう」

本当とか事実とか、そういう男の振り翳すようなもので殴ってやろうと思った。ペニスのようなもので頰を張ってやろうと思ったのだ。

女は、私がとつぜん長く喋るのでびっくりしたようだった。目を大きく開いて、静止している。

右目の上睫毛のマスカラが、ダマになっていた。黒いマスカラ。重そうだ。その質量は、目の大きさに対して大きすぎる。むしり取ってやりたいと思った。

私は女が怒り出すかと思ったが、そうはならなかった。

 

 

 

 

おわり

HER DECEASE

 

 

祖母が亡くなった。

もう突然に、それは起こった。

 

私は2週間アメリカに旅行に行っていて、ずっと日本にいなかった。それに日本にいたってふつうは働いたりしていて実家にいない。

母は正社員として働いていて、建築関係なので週の中日(なかび)が休みだ。仕事のある日は夜、走りに行くため家にいない。

そして祖母は、週の中日、私の帰国の日の夜に倒れた。

 

今でも信じられない。信じられないまま、未整理のまま書いている。

私は彼女にとってよい孫ではなかった。母もそう、よい娘ではなかった。

私たちの関係は破綻していた、いつか、一言二言くらい、声を荒げずに苦しくならずに、話せる日が来るんじゃないかと、漠然と思っていたけど、それは"今"では常になく、先延ばしにされた薄雲の向こうの未来だった。

 

葬儀には徳島から、祖母の妹が駆けつけた。母と大叔母と私、女3人ですべてを進めた。3人でずっといたためにたくさん話をした。

話はもちろん祖母のこと、そして私の生まれる3ヶ月前に亡くなった彼女の夫のこと、また私の妹のことや、他の親戚のこと、多岐に渡った。

私たちは朗らかでさえあった。葬儀を淡々とこなしていき、間に3人でたくさんご飯を食べ、甘いものも必ず食後に摘み、コーヒーも忘れずに飲んだ。

葬儀場で大きな笑い声を立てさえもした。

もちろん式のあいだは、揃って涙を流した。

 

しかし私はじっさい、どのように祖母に声をかけていいのかわからないままでこの3日間を過ごした。

昔はたくさん楽しいことがあった。ファニーな人でもあったのだと思う。たくさん話すしたくさん怒る、たくさん動いてたくさん食べるし、とにかく装飾品にお金を惜しまない人。だからまあ母に、そして私に、その遺伝子は否応なく濃く受け継がれていると言わざるをえない。

 

だからこの数日間はまじでクレイジー

帰国したそのまま、病院に行って次の日にお式で、その次の日も。

そして祖母はお墓に入り、実家には8年ぶりに見る祭壇。

アメリカで罹り、治りかけていた副鼻腔炎は悪化して病院に行かなければならなかったし、帰国前に発病したヘルペスも痛い。

それなのに今日はずっと楽しみにしていたゼミの仲間と会う日だし、明後日からは新しい場所で働く。

 

もう何が起こっているかわからない。気持ちの整理なんてつけていられない。

いつだってそうだ、物事は気持ちの整理なんてものをつける余裕を与えてくれなくて、現代人は忙しい。

喪に服す暇もなくお肉もお野菜もたくさん食べて外に出ていかなければならない。

 

私が祖母にかけた言葉は、「許せなくてごめんなさい」だった。

「許せないけど、ぜったいに許せないけど、許せなくてごめん」。

 

祖母が、然るべきところで愛して愛された彼女の夫と会えていることだけを願う。

 

 

ちょきん

 

 

 

人を好きになるやり方にはいろいろあるけれども、私のそれは相手をひとたまりもなくさせるやり方だと思う。

それは当然私においては男の人に対してなのだが、やはり信頼にどうしたって基づく。

信頼というのは、人間性とか社会性とか、なんかそういうデコレーション的なもの、人の外側にあるもの、ではなくて、もっと中心にある温度の高いものに対する信頼だ。

たとえば男の人と眠っているときに、信じられないくらい肌の温度が高くて汗をかいてお布団を跳ねのけざるを得なくさせるような、その温度、芯から湧き出る温度、そのまま。そういうものに対する信頼。私にはないもの、社会のためのものではないのに社会的であるもの、確固たるもの、確固たるように見えるもの。

べつにその人を恋愛的に好きではなくても、他人にでも友達にでも、私のそういう好きは発動する。

好きな男の人に私は100%の笑顔で接するし、興味を惜しみなく注ぐ。フレンドリーに、でも近づきすぎていやらしくならないように、気をつかう。懐く、というのが正しいくらいに尻尾を振る。年上でも年下でもそれは関係ない。

 

そしてさいきん、そのことと、私が去勢をでき得るということが重なって思い浮かぶ。

"去勢"はここさいきんのテーマで、そのことについてたびたび考えていた。

映画「セッション」を観て、父性の去勢を成し遂げた主人公の青年に感激し、私も男だったら男のペニスを折れただろうに!!!と心底羨ましかった。折ってやりたいペニスがあるから。

でも、友達が気づかせてくれたところによると、私にもべつの形で去勢はできるらしいのだ。

彼は私に「あなたの求める男性性を持たない男性はあなたに去勢される」というようなことを言った。

なるほど

私の男性に対する無条件の信頼は、その男性のなかにある男性性に向けてのものだ。

逆にいうと、私にとっては男性的でない男性は信頼には値しないので、彼らに笑いかけたり話しかけたり目を見たりしない。女の腐ったような男がいちばん嫌いだからで、そのような男に接するのは時間の無駄だからだ。

女性っぽさという自分と似通った部分が、自分とはまったく違う形でさらにペニスまである意味不明の物体に付随するところを見るのは気持ちが悪い。

私が動物園を嫌いなのもこの理由でだ。自分と共通点のあるものがまったく違う形で存在するのを見るのは、なんだか気味も居心地も悪くて嫌いなのだ。

で、そういう、私が笑いかけない男性を、私は去勢していると言えるのかもしれないとさいきん思い当たった。

私の態度が与える劣等感が、そのままペニスを萎えさせて植物にさせるのかもしれないと。

これはもちろん私が男性にとって憧れの存在であるとか、高嶺の花であるとか、そういうことを言っているわけじゃない。

ただ、私のように女であることをこそ女であることの喜びとしているような女に、無視されるということがその人の男性の部分をばっさり切り捨てるということに他ならないのではないか、と思い当たったのだ。

 

だから、そうすると、無知な私が一時期付き合っていた人のことを、あらためて今の私は去勢できたということになる、再会し正面から存在の無視をして、笑いかけず、目を見なかったことによって。

そうすると、こないだクラブで急に腕を組んできた男のことも去勢できたのだろう。半袖だったので素肌に急に触れられて鳥肌が立ち、強い調子で非難すると、男は恥ずかしそうな調子崩れの顔で黙った。あれは去勢だったのだろう。

おばさんみたいな体臭の、働き先にいる男のことを無視することで、去勢に成功しているのだろう。はじめの頃は他のどの女の子にもするように、誘いをかけてきたくせに、さいきんは声をかけてもこないから。

 

オッケー、じゃあ私にだってペニスはないけど去勢はできる。

でもそれはやっぱり、植物みたいなペニスをばっさり、枝切り鋏で切るようなことだけだ。

屹立したペニスはやっぱり折れない、マウントを取り合うような主導権を握るような、相手を打ち負かすような去勢はやっぱりできない。

男らしい男の去勢は私にはできない。「セッション」も「ファイトクラブ」もやっぱり私には遠い。