HER DECEASE

 

 

祖母が亡くなった。

もう突然に、それは起こった。

 

私は2週間アメリカに旅行に行っていて、ずっと日本にいなかった。それに日本にいたってふつうは働いたりしていて実家にいない。

母は正社員として働いていて、建築関係なので週の中日(なかび)が休みだ。仕事のある日は夜、走りに行くため家にいない。

そして祖母は、週の中日、私の帰国の日の夜に倒れた。

 

今でも信じられない。信じられないまま、未整理のまま書いている。

私は彼女にとってよい孫ではなかった。母もそう、よい娘ではなかった。

私たちの関係は破綻していた、いつか、一言二言くらい、声を荒げずに苦しくならずに、話せる日が来るんじゃないかと、漠然と思っていたけど、それは"今"では常になく、先延ばしにされた薄雲の向こうの未来だった。

 

葬儀には徳島から、祖母の妹が駆けつけた。母と大叔母と私、女3人ですべてを進めた。3人でずっといたためにたくさん話をした。

話はもちろん祖母のこと、そして私の生まれる3ヶ月前に亡くなった彼女の夫のこと、また私の妹のことや、他の親戚のこと、多岐に渡った。

私たちは朗らかでさえあった。葬儀を淡々とこなしていき、間に3人でたくさんご飯を食べ、甘いものも必ず食後に摘み、コーヒーも忘れずに飲んだ。

葬儀場で大きな笑い声を立てさえもした。

もちろん式のあいだは、揃って涙を流した。

 

しかし私はじっさい、どのように祖母に声をかけていいのかわからないままでこの3日間を過ごした。

昔はたくさん楽しいことがあった。ファニーな人でもあったのだと思う。たくさん話すしたくさん怒る、たくさん動いてたくさん食べるし、とにかく装飾品にお金を惜しまない人。だからまあ母に、そして私に、その遺伝子は否応なく濃く受け継がれていると言わざるをえない。

 

だからこの数日間はまじでクレイジー

帰国したそのまま、病院に行って次の日にお式で、その次の日も。

そして祖母はお墓に入り、実家には8年ぶりに見る祭壇。

アメリカで罹り、治りかけていた副鼻腔炎は悪化して病院に行かなければならなかったし、帰国前に発病したヘルペスも痛い。

それなのに今日はずっと楽しみにしていたゼミの仲間と会う日だし、明後日からは新しい場所で働く。

 

もう何が起こっているかわからない。気持ちの整理なんてつけていられない。

いつだってそうだ、物事は気持ちの整理なんてものをつける余裕を与えてくれなくて、現代人は忙しい。

喪に服す暇もなくお肉もお野菜もたくさん食べて外に出ていかなければならない。

 

私が祖母にかけた言葉は、「許せなくてごめんなさい」だった。

「許せないけど、ぜったいに許せないけど、許せなくてごめん」。

 

祖母が、然るべきところで愛して愛された彼女の夫と会えていることだけを願う。