ちょきん

 

 

 

人を好きになるやり方にはいろいろあるけれども、私のそれは相手をひとたまりもなくさせるやり方だと思う。

それは当然私においては男の人に対してなのだが、やはり信頼にどうしたって基づく。

信頼というのは、人間性とか社会性とか、なんかそういうデコレーション的なもの、人の外側にあるもの、ではなくて、もっと中心にある温度の高いものに対する信頼だ。

たとえば男の人と眠っているときに、信じられないくらい肌の温度が高くて汗をかいてお布団を跳ねのけざるを得なくさせるような、その温度、芯から湧き出る温度、そのまま。そういうものに対する信頼。私にはないもの、社会のためのものではないのに社会的であるもの、確固たるもの、確固たるように見えるもの。

べつにその人を恋愛的に好きではなくても、他人にでも友達にでも、私のそういう好きは発動する。

好きな男の人に私は100%の笑顔で接するし、興味を惜しみなく注ぐ。フレンドリーに、でも近づきすぎていやらしくならないように、気をつかう。懐く、というのが正しいくらいに尻尾を振る。年上でも年下でもそれは関係ない。

 

そしてさいきん、そのことと、私が去勢をでき得るということが重なって思い浮かぶ。

"去勢"はここさいきんのテーマで、そのことについてたびたび考えていた。

映画「セッション」を観て、父性の去勢を成し遂げた主人公の青年に感激し、私も男だったら男のペニスを折れただろうに!!!と心底羨ましかった。折ってやりたいペニスがあるから。

でも、友達が気づかせてくれたところによると、私にもべつの形で去勢はできるらしいのだ。

彼は私に「あなたの求める男性性を持たない男性はあなたに去勢される」というようなことを言った。

なるほど

私の男性に対する無条件の信頼は、その男性のなかにある男性性に向けてのものだ。

逆にいうと、私にとっては男性的でない男性は信頼には値しないので、彼らに笑いかけたり話しかけたり目を見たりしない。女の腐ったような男がいちばん嫌いだからで、そのような男に接するのは時間の無駄だからだ。

女性っぽさという自分と似通った部分が、自分とはまったく違う形でさらにペニスまである意味不明の物体に付随するところを見るのは気持ちが悪い。

私が動物園を嫌いなのもこの理由でだ。自分と共通点のあるものがまったく違う形で存在するのを見るのは、なんだか気味も居心地も悪くて嫌いなのだ。

で、そういう、私が笑いかけない男性を、私は去勢していると言えるのかもしれないとさいきん思い当たった。

私の態度が与える劣等感が、そのままペニスを萎えさせて植物にさせるのかもしれないと。

これはもちろん私が男性にとって憧れの存在であるとか、高嶺の花であるとか、そういうことを言っているわけじゃない。

ただ、私のように女であることをこそ女であることの喜びとしているような女に、無視されるということがその人の男性の部分をばっさり切り捨てるということに他ならないのではないか、と思い当たったのだ。

 

だから、そうすると、無知な私が一時期付き合っていた人のことを、あらためて今の私は去勢できたということになる、再会し正面から存在の無視をして、笑いかけず、目を見なかったことによって。

そうすると、こないだクラブで急に腕を組んできた男のことも去勢できたのだろう。半袖だったので素肌に急に触れられて鳥肌が立ち、強い調子で非難すると、男は恥ずかしそうな調子崩れの顔で黙った。あれは去勢だったのだろう。

おばさんみたいな体臭の、働き先にいる男のことを無視することで、去勢に成功しているのだろう。はじめの頃は他のどの女の子にもするように、誘いをかけてきたくせに、さいきんは声をかけてもこないから。

 

オッケー、じゃあ私にだってペニスはないけど去勢はできる。

でもそれはやっぱり、植物みたいなペニスをばっさり、枝切り鋏で切るようなことだけだ。

屹立したペニスはやっぱり折れない、マウントを取り合うような主導権を握るような、相手を打ち負かすような去勢はやっぱりできない。

男らしい男の去勢は私にはできない。「セッション」も「ファイトクラブ」もやっぱり私には遠い。