鈴は、座って眺めていた。
大きな駅の ビール屋は空いていて、テラス席に座っているのは鈴だけだ。
フライドポテトをつまみながら、パイントで注文したビールを飲む。
男、男と女、女と女と女、男と男と女、男と男、女、女、男と男、男。
ひとりで歩く者はスマホを触りながら、友達や恋人と歩く者はお互いを見ながら、歩くので誰も鈴の視線には気づかない。
ポテトをマヨネーズに浸からせて、口に運ぶ。
誰も鈴の存在に気を配らない。
ビールのグラスが汗をかいている。掴む指が濡れる。
待ち合わせをしている人も大勢いる。やっぱりほとんどがスマホを見ていて、だから鈴は遠慮なく観察していく。
黒いシャツにゆったりした麻のパンツ、黒いサンダルの細い男。
白いTシャツにハイウェストのジーパン、スニーカーを履いた背の低い女。
髪の毛をひとつくくりにアップにしている10代の女の子。
何人かであとひとりを待っている風情の、スーツを着た集団。
眉毛を太く描きすぎている女。腹が出ていても構わずタンクトップを着ている中年。腰まで伸ばした髪を揺らして歩く女と、その腰に手を回す男。
姿勢のよい女が目の前を通り、鈴は座り直した。肩を落として背筋を伸ばす。
スマホを見ると、もうすぐ18時だった。
ポテトもビールも、まだまだ残っている。18時15分には、出なければならない。グラスを持ち、ごくごくごくと続けて三口飲んだ。
じりっ
何気なく駅の雑踏に目を戻すと、景色のなにかが違っている。
底の厚いサンダルで誰かを待つ女の子。知らない男の子の、スマホを触るときにしてしまう前髪をしきりに触る癖。
ああ。
鈴は分かった。スーツの集団のなかに、変なのがいる。
明らかにその集団に属しているのに、いぼのように疎外感を放出している男がいた。
身体をこちらへ向けている。
きっと彼はスーツを好きなのだろうと鈴は思った。スーツを着た自らを好きなのだろうと。
背はそこまで高くはないが、脚が長いのだ。だから暗い色のスーツがよく似合っている。
仕事帰り、同期の集まりらしく、ネクタイをだらしなく緩めて。ボタンをふたつ外している。
スマホを触ってもいなければ、誰とも話さずに彼は柱の影に立っていた。集団はそんな彼を気にすることもなく、言葉とも言えない言葉を喋り合っている。
鈴は彼を眺めた。その視線は、明らかな強さを持っていたが、鈴はそのことに気づかなかった。
男は頬を掻く。ポケットに手を入れる。落ち着かないようだ。
黒い靴はよく磨かれ、光っている。それだけでも男がまめな性格であることがわかる。
年齢は鈴と同じくらいか少し下だろう。職業は金融系だろうか。スーツの仕立ては悪くないようだった。
暑い日で、駅の空調は効きづらく、テラス席にはそよとも風が吹き込まない。鈴は額から汗をひとつ流したが、それにも気づかずにいた。
集団に、新たに男がひとり加わる。それを皮切りに、うごうごと男たちは次のムーブを始めようとする。
こちらを向いて立つ男にも、声がかかった。行くぞ、とかなんとか。
しかし男は何かを言い返した。鈴は目を細める。
こちらに向かってくる!
男はスーツのポケットに手を入れ、視線を店の入り口のほうに投げながら、しかしまっすぐこちらへ向かってくる。
鈴は仰天する。目を丸くして、ただ待つ。まるでテレビのなかから芸能人が出てきたように、抽斗から未来のロボットが飛び出してきたように、それは唐突だった。
男はいよいよ目の前に立つ。
もう、視線は完全にぶつかり合っている。
「おねえさん」
ハスキーな声だった。
そこで初めて、鈴は自分が彼の声を想像していたことに気づく。
「ビール、ぬるくなってるでしょう」
黒髪を大きく分けて、額の露わな男は鈴を見下ろし、ポテトの入ったかごを指さす。
「さっきからぜんぜん進んでないけど。もう要らないなら食べてあげようか」
鈴は黙った。黙って、恥じた。
見られていたのだ。鈴も。見ていただけだと思っていたのに。あまりに無防備に見つめていたのに。
見られることの準備もせずに、無遠慮に見つめてしまっていたことを思うと、顔にどんどん熱が集まる。
「待ってるよ、ともだち」
鈴はかろうじてそう言った。せめてもの反論のように、とうぜん反論の形をとれないそれを。
男は猫のようにいっしゅん、振り返る。スーツの集団は、何が起こっているのかとぜんぶ、こちらを見ていた。
「そうだね、行かないと」
鈴はほっとした。万引きを見過ごしてもらった中学生のような気持ちで。しかし、
「俺もこんどやろうかな、それ。」
男はまだ目の前に居座る。鈴の視界のほとんどを牛耳って。
「それ?」
「うん、人間観察つまみにビール。こんど俺もここに来るよ。」
早口で言って、意外なほど幼いやり方で破顔した。
かと思うと涼しげな真顔に戻り、じゃあね、と言って去ってしまう。
スーツの集団は、男を取り囲みながら進み出した。ナンパ失敗してんじゃねーよ、と不必要な大声が聞こえた。
鈴は大きく息を吐く。
見る、ということのエネルギー。
世界というのは案外、自らを外しては流れていないらしい。
おわり