クライシス

 

 

金槌で手足を叩いて、指がぽろりととれるところを想像した。極限状態において、どうして下らない場面ばかり頭に浮かぶのだろう。

信じられるのは、後ろからフードを引っ張る弱い力だけだ。

吹き付ける雪から、とにかく多摩を、彼女を守るには私の身体は小さすぎた。

いつもそうだ、行動せずに後悔するよりもして後悔した方がいいとか、そんな標語のようなものは、私には当てはまらない。

「大丈夫?」

首を心持ち後ろに向けて(何しろダウンのフードや襟巻きやらで首が回らない)、訊いたが、返事はなかった。聞こえなかったのだろう。風が吹き付けて、口の中に声を押し戻すので、その言葉は私のなかでぬくく響いた。

大丈夫じゃない、客観的に見ればそんなことはわかっている。

ブーツが雪を踏みしめる。傾斜をとりあえず降っているつもりでいるが、平衡感覚ももはや失っているのかもしれない。

「---!」

なにかが聞こえた。あるいは、少し前から聞こえていた。後ろからフードが引かれて、私はようやく振り返る。

「ハヤシ!!!!」

彼女が私を呼んでいたのだった。真後ろで、大きな声で。

睫毛が凍っている。それで、目を伏せていて、重そうだ。その美しさに、愕然とした。

ほとんど不可解だった。白くけぶる視界のなかで、これほど現然と存在する、これは彼女は、肉体を超えている。そうでしかありえない。鼻の下までずり下がったネックウォーマー、凍てつく吹雪に頰を複雑な薔薇色に染めて。私は吸い寄せられるように、その頬に唇をいっしゅん、つけた。冷たい、湿度を保った、気持ちいい肌。

離れると途端に、顔の全体を襲う雪が、自分の熱で溶けるのを感じる。

多摩は顎を斜めに引いて、思いきり怪訝な顔をした。「なんで今?」そう口にしたのか、しないのか、わからないがはっきりと伝わり、私は笑った。ネックウォーマーを、目のすぐ下まであげてやる。

「あれ!!」

今度は、はっきりと大きな声が言う。同時に指された指を辿るが、その先にはなにもない。

視線を戻して、首を傾げて見せるが、多摩は怒ったように眉根を寄せて、依然指を下ろさない。それどころか、腕を振ってその先にあるものを強調する。

仕方なく私は、その先に目を凝らす。

なにも見えない。

「建物みたいなのが見えたの!!」

多摩の主張で、私たちは進路を左に変えて進んだ。地面が 自らの身体が、斜めになっているのか、そうでないのか、もうわからないまま。

じっさい、なにが見えようと見えまいともうよかった。ここでふたりで眠るように死ぬならそれで。発見されるときには、虫に喰われてひどい状態だろうが、そんなことは知ったことではない。

私たちは服を脱いで温め合うだろう。ふたりの間になにをも許さず密着して眠るだろう。しかし凍った彼女は美しいだろうから、私はなんとかして長く起きておかなければならない。呼びかけに答えない多摩を抱いて。涙さえも凍るなら誰にも気付かれずに泣けるだろう。

また、後ろからフードが引かれた。果たして、建物はあった。小さな山小屋が、少し上がったところに建っている。

「どうやったらあれを見逃せるわけ? ぼっとしてたらすぐ死ぬよ」

語調を強めて多摩がそんなようなことを言った。私は唇を突き出して遺憾の意を伝えようとしたが、彼女に見えるはずはなかった。

ダウンとスキーズボン、歩きにくい靴でうるさい歩調、動作、多摩は小屋に急ぐ。私は大股で後を追う。とにかくこの風と雪を凌げるなら、寒さはだいぶ 和らぐだろう。

 

 

 

 

 

続く………かも!