きた、梅雨が。
今年は、やっときた、母曰く「焦らしよんな」。
しっかり6月に入り、たっぷり2週間経ってからきた。ここさいきん、数年の傾向として、季節はどんどん夏に侵食され、もはや6月は真夏と言ってよかったのに、今さら。
喜ぶべきは、紫陽花の安全の確保だ。
春の嵐に気をもむように、空梅雨にも気をもんでしまうのは、ひとえに花々のためだ。ほとんどそれだけだ。
花びらをちりちりに巻いてしまって、青空のもとで、暑さに喘ぐように見えるせっかくの涼やかな色の花たちが、私を苦しくさせる。
「待てよ、じっさい紫陽花にとって、こんなこと想定内かもしれない。」「というよりお花であるわけだから、ふつうに日光も必要なんやろうし。」「本人たちは大して、梅雨を待ちわびているわけでもないのかもしれない。」などと考えるが、やっぱりだめだ。
視覚的に、悲しいのだ。
紫陽花は濁った空の雨のしたで、カタツムリやカエルのデコレーションごてごて、さやかで濃い緑の大きな葉をゆらゆら、が、いいのだ。それしか嫌なのだ。
しかしその紫陽花の美しさに対する期待と、梅雨入りという絶望を、うまく結びつけられずに毎年バランスを崩す。
だから頑張って梅雨のよいところについて述べると、毎年、答え合わせがあるところだ。
秋になって「今年の梅雨入りはやっぱり○月△日でした」と発表されるところ。
物事というのは、渦中にいるときには把握がもっぱら不可能で、なにかの始まりというのはいつも振り返ってしか確かにできない。
そういえばあれが始まりだった、という、距離を置いてこそ冷静になって振り返る行為は、恋に似ている。似ているのでなんだかいい感じ。
これからどうなるかも、どんなふうに近づけるか、どんなふうに雨が続くか、晴れが続くか会える日がなくなるか、身も背もなく夢中になってしまうか大雨で川が氾濫してしまうか、なにもわからないけれど、過ぎてしまえば明確な始まりと全容。
梅雨は恋みたい。
馬鹿げた喩えではあるが、梅雨を楽しめ………………る…………っく…………句点を打てない…………楽しめる、………楽しめる…………、、、!!!
楽しめるかあ〜!!!!!!
がぜん、だんぜん、ぜんぜん夏が楽しみやわ!!!