ラフター

 

 

 

「笑う」という行為の、なんと無防備なことか。

 

同じエピソードトーク、同じギャグ、同じふざけた言葉でも、話し手によってそれがおもしろいかそうでないかは全く違う。

逆にいうと、なにがおもしろいのかわからないことでも、その人が言えばなんでかおもしろい、なんてことは ざらにある。

さらに その場の空気感というのも 笑いにはたいへん関係してくるわけで、空気感というのは言うなれば下地のようなものだ。笑いに向かう理由が、その場にあるからみんなが笑う、というような。

 

ナンパでも、何か言って女の人がふふっと笑えば、もうこっちのもんだ、みたいな通説がある。

笑う、笑顔を見せる、ということは 相手に心を許しているということだ。

無防備だ。笑いは、どんな感情表現よりも無防備。

 

でも、エピソードトークや ギャグへの笑いは 他の何とも違うだろうと思う。

会話の流れで出る笑いよりも、それは、エンターテイメントの割合が大きいからだ。

言うなれば 楽しませるための努力であって、楽しませられる側の人間、つまり聴衆は、その努力を受け入れて存分に楽しませてもらう気概を持たなければならない。

 

催眠術と同じだ、と思う。

というよりも多くのことが催眠術と似ていると私は、最近思う。

 

以前 催眠術にかかりにいって そのことについて書いたときにも触れたように、

催眠術というのは「かかりにいく気持ち」が、客になければ成立しない。

「催眠術でもなんでも楽しむぞ〜!!!」という気概でもって臨まなければ、催眠術には かかれないのだ。

パッシブのなかに アクティブがなくてはならない。受け身であっても、受動的であってはならない。

楽しみやおもしろさ、なんらかを享受する側には、享受する側としての努力が必要なのだ。

 

だから世の中は、「おもしろくないな〜」と思いながら生きている人にはまったくおもしろくないし、

「楽しいんでいこ!」と思いながら過ごす人には楽しくてよいものなのだろう。

 

今働いているバーには 店長のことが大好きな人たちが集まる。

店長のことが大好きで、楽しむことも大好きで、お店の楽しい空間を お客の側から作ることに努力を惜しまない人たちが来る。

だからその人たちは 店長のエピソードトークや茶化す言葉にたくさん笑う。たぶん客観的に見たら必要以上に笑っていると思う。

他の人が話してもそんなには笑わない。店長を人間としてリスペクトしているから笑うのだ。

 

笑いにはリスペクトも大いに込められている。見下している人のする"おもしろい話"に、人は笑わない。どこかでその人を尊敬している、敵わないと思っているから、その人の話がおもしろいのだ。

 

漫才にもその側面はある。

知名度のない芸人の登場時のツカミよりも、大人気芸人の登場のほうが笑いや拍手がたくさん起こる。

人気(知名度)≒笑い、でもあるから大阪での漫才番組のほうが盛り上がりって大きい。

でも、漫才がちょっと違うのは、あくまで創作物の内容が大事であり、タレント性よりもネタの中身が重視される(ことが多い)というところだろう。

知ってる人の言うこと、という安心感よりも、意外性や純粋なおもしろさが勝つのが漫才である場合もあると思う、知らんけど。

 

とにかく、笑わせてしまえば勝ちなのだ。

笑ってくれる相手なら、あなたをリスペクトしているということだ。

おもろいとこやで!ここが笑いどこやで!と、わかりやすく話してあげると、相手も笑いやすい。おもしろい話をしているのだ、ということがわかりやすければ、笑いどころを探してくれるだろう。

町場や狭いコミュニティでの 笑いには 親密度や信頼度、それこそ日頃からの下地が必要なのだろう。

 

 

 

そんなことわかってたってエピソードトークで人笑わせたことなんかないけどな。

エンターテイメントとは、お客の量 関係なく、偉大なものだ。

それは 生活必需品とは言えないが、それなのに、なかったらみんなの心が確実に死んでしまう。

 

だから、さ、みんな、酒飲みに外出ようね、渦中をなんとか出たらさ!!!!