笑いの発作

 

 

 

お腹を抱えて笑う。

それはもう爆発的に。

笑いが笑いを生み、その笑いがまた笑いを生んで、伝播し合って無限に続く。

私は立っていることも不可能になり頽れる。家ならば、床に転がって笑う。

お腹痛い、もう嫌だ、くちぐちに言い合うとそれがまたおもしろくて、お腹の底から笑いが込み上げてきて、笑う。

一度おさまっても、笑いの発作が馬鹿みたいに思えたり、その笑いのもととなったものをもう一度掘り返したりして、また波がとって返してきてしまい、笑う。

お腹が痛くなったり、背中のあたりが痛くなったり、尋常ではない笑いの発作に、身体が悲鳴をあげても笑う。悲鳴をあげていることが面白くて笑う。

 

私たち(私と母と妹)には、この発作がたびたび訪れる。

妹は、私と母よりも冷静であるので、私と母の間だけでこれが起こるということもたびたびある。

女友達とのあいだでもよく起こる。家族とのそれはしつこいくらい長いが、友達とのそれは外出先であることも相まって、ちょうどいい長さで途切れる。

なりふり構わずとにかく笑いの発作に身を委ねることは、気持ちのいいことだ。頬まで痛くなってしまい、ひとまず終わると笑い疲れて、水泳の授業のあとのような、ひと仕事終えた達成感まである。

 

これはしかしけして、男の人との間では起こらない。

私はたぶんよく笑うほう(女友達にさいきん「あなたはどうして会った瞬間から笑っているの?」と訊かれたのでびっくりした)であるようなので、男の人といてもたぶんよく笑う。

でも、笑いの爆発はぜったいに起こらない。なぜならたぶん、男の人と私との間には明確に境界があって、それは絶対的であり、感情がいっさい混ざらないからだ。

私たち(男の人と私)は、それぞれに物事を感じ、それぞれにそれを受け止めて消化する、そうしてそれを隠す。なにかをおかしいと思って、それを伝え合って一緒に笑ったとしても、それは別々にその物事を見て、捉えて、感じて、ひとりひとりで笑っているに過ぎない。共通しているのは、物事だけ。事実だけだ。

だから私の笑いは男の人には連鎖しないし、男の人の笑いは私に連鎖しない。

私は男の人がなぜ笑っているか本当の意味では決してわからず、男の人にも私がなぜ笑っているのか本当の意味ではわからない。

ある意味で私はいつだって、男の人に気を許してはいないのかもしれない。

 

女同士は感情の共有が得意であるから、おかしさは伝播し、完全に1足す1が2となって、2がまたさらにかける2で4になって、笑い続けてしまう。

隠すべきものがなく、あけすけでいられるので、笑いの爆発だってお腹で留めておく必要がない。

 

 

 

 

ちなみに直近で母とお腹が痛くて苦しいほど笑いを爆発させたのは、お好み焼き粉のせいだった。

日清製粉ウェルナのCMソングを、母が歌い、(「ウェ〜ルナ〜♪」)私はそれが何だかわからずに、「なにそれ?」と半ば笑いながら訊いた。

すると母は私の胴をばしこん、あるいはどしん、とにかく手刀で切るように鋭く叩き私のお好み焼きでぱんぱんのお腹は鈍い音がして、そうして母は「なんでやの!散々歌ったやんか!」と言った。もうその時点で母は笑っていた。「誰が?」私も笑い出した。「ふたりで歌ったやん!なんで覚えてへんのよ!」

もうだめだった。キッチンでのやりとりだったが、母は調理台に手をついて身を屈めて笑いの発作に襲われる。私は這うようにリビングに移動して、笑い崩れて転げ回る。

「なんでやのよ!裏切りよそれは!」「私じゃない!違う人でしょ?」「違う人なわけないでしょ!」笑いの隙間でなんとか会話して、それがまたおかしくて笑う。

「ああお腹痛い」、「もういや!」、どちらが発したのかわからないその言葉たち、ヒイヒイと苦しみながら笑いに悶えて、時間が経ち、発作が収まると、ふたりともとても疲れて、しばらく静かになる。

静かになってしばらくして、また私が蒸し返して少し笑い、もういいっちゅうの、と母が言って発作は完全に終わり私たちは日常に戻る。