立ち止まる月子に、その着いてくるときの存在感と同じくらいの停止の気配に、私は振り返る。
どうしたの、なに見てるの。
私たちは電車に乗りたくて、そして、それに遅れそうで、なのでそれは質問というより急かすための呼びかけで、なにを(くだらないものを)見てるの、と、そういうふうになった。
「睡蓮鉢って好きなの。」
住宅地のなかに必ずあるような、軒先でたくさん植物や魚を育てている家の前で月子は立ち止まっているのだった、無表情に鉢を見下ろして。
私は時計を見る。次の電車を逃せば、20分待つことになる。
風が一陣吹いた。
庭木の柔らかそうな葉がじゅんじゅんに揺れる、頭の上の高いところからその音が鳴る。家に比して大きな樹木だ。
私は月子の隣へ行って、鉢を見下ろした。球根を持つ水草が浮いている。鉢は深い紺の色をしていて、底の方には光もその反射も届かず、暗い。球根をぬってちいさなメダカが何匹か、忙しなくすうすうと動いている。
私たちの背後を掠めるように、トラックが通った。
どうして好きなの。
私は月子の顔を見た。頬は機嫌の悪い子どもみたいにぽってりしているくせに顎は鋭くこづくりだ。表情は読めない。髪を耳にかけてキャップを被っているから、ぜんぶ見えるというのに、何を考えているのかその横顔からは見えない。
「たとえば今のトラックのうるさい音も、私たちの視線も、ぜんぶ、……」
少し言葉を止めて、目をあげ、植栽を眺め、また鉢に視線を戻す。
「静かで閉じた世界にいられたらいちばんと思うの。」
月子の顔がこちらを向いて、私は自分がぞくりとするのを感じた。
少ない水のなかで動き回るメダカの耳に聞こえる膜の張ったアンリアルひとごとのタイヤの音。水面に切り離されたはるか遠くからの大きな動物の視線。
私は私は、ずっとこの女を好きでいられるのだろうか。ずっと応えていられるのだろうか。求めていられるのだろうか。私は。
「電車、遅れるね。」
とっくに私が諦めた、過去の話を持ち出して、月子は走り出した。
でもやっぱりだからその笑顔、揺れるスカートと衝動性、かわいいと思うのだ、かわいい。
私のかわいい月子。
走り出して手を繋いだ。今私の好きな人。好きな月子。今、触っていられる手の届く今、触っていられたらいい。あとのことはあとが今になった今に考えなくてはならないのだから。
「どうしたの、電車遅れちゃうよ。」
晴人は振り返って言った。月子の足音が止まったからだ。
「睡蓮鉢って好きなの。」
ふたりは電車へ急いでいて、だから人の家の軒先に立ち止まっている暇なんてない。
「スイレンバチって言うんだねそれ」
月子は顔を上げて、晴人を見て微笑んだ。晴人はそれがかわいくて、電車には遅れてしまいたくないけれども、かわいい彼女の笑顔をいいなと思った。笑顔のかわいい女の子っていいな。こっちを見て笑ってくれるのは嬉しい。
遠くからトラックが来て、晴人は月子の背中に手をやる。大きな音を立ててそれが過ぎ去るまで。それはなにかから守るとか、なにかを防ぐためだとか、そういう思考のまったく介在しない行動だ。
「たとえば今のトラックのうるさい音も、私たちの視線も、ぜんぶ、……」
月子は背中に晴人の手を-熱く厚い、自分がメダカだったらたちまち火傷に肌を爛れさせていただろうと思うほど異質な手を感じながら、言葉を選ぶ。
「静かで閉じた世界にいられたらいちばんと思うの。」
そうして、見上げた。晴人の日にやけた頬を鼻を、目というよりもその顔のぜんぶを見て。
「狭いよ、喧嘩とかしないのかな、メダカは。」
晴人は鉢を見ながら答える。
「水中は楽しそうだけどな」
そうして目線を上げて、きっと水中で泳ぎ生活をする自分を、想像している、月子は、手を取った。
「電車、遅れるね。」
晴人はたちまち笑顔を湛える。
走り出す晴人に引かれて月子の腕はいっぱいまで伸びる。おかしくて笑う、月子を見て晴人もまた笑った。