愛だ

 

 

ホテルで働いている。値段は高いけどフレンドリーな接客、スタッフみんな若くてエネルギッシュなことを売りにしている新しめのホテルで。

 

こないだ、おじさん白人ふたり連れがチェックインしにきた。彼らはなんかたくさん喋るし、とっても仲睦まじく、長年の友達なのかなあとか思っていた。予約を見ると、部屋にはベッド1つ。あれ?ええんかな?と思いつつ、軽く話す。

「日本ははじめて?」とか、「大阪には着いたばっかりなの?」とか。

訊く前から2人のおじさんはべらべら喋ってきたけれども、それによると東京や名古屋に行ってソウル経由で大阪へまた戻ってきた、東アジアラウンドトリップ中だそうだ。

「韓国のどこどこのホテルはあんまりだったな。あれやだったね」「やだったね」とかずっと喋っている。

2人の絶え間ないお喋りの間に入れてもらいながら話していると、「実はね26なんちゃらなんだ」と聞こえて、私はネイティブスピーカーの早口にはあんまり対応していないため、聞き返した、「え?26がなに?26日?」、26……周年?

「26年のアニバーサリー旅行なんだよ僕たち!」「君が26歳くらいかな??」

私は全身に鳥肌がたった。

「おー、まい、私が思いっきり26歳ですよ!」と私、「そうなん!お前おじさんやな!」「26歳が若いんだよ!」「感激だなあ」「僕たち年取ったよなあ」「いや26歳は若い」とカップル。

「まじで、すごい、うわあ、おめでとうございます!この旅が素敵なものになりますように!」私は鳥肌を立てたままゲストを部屋へと見送った。

そのホテルではゲストのアニバーサリーや誕生日にはちょっとしたアメニティを贈るのだが、私は、感激したまま「ゲストの26周年アニバーサリーにカードとアメニティを用意してください!」と鼻息荒く担当部署に依頼した。

 

26年。26年だ。

おじさん2人は、ほんとうにいい感じだった。たとえば私が簡単にその会話に混ざれたり、アニバーサリーにおめでとうと言えたり。2人の間の冗談について、(ちゃんと聞き取れてないけど)こいついつもこれでからかってくるんだよと私に対して呆れ顔をしてみせたり("He is always teasing me like this😫😂")。

私はもう泣きそうにさえなった。私が生まれた年から一緒のふたり、私が背を伸ばして体重を増やすように、それとおんなじように、愛を育ててきたふたり。なんの拘束もなしに。

 

じっさい、アメリカ人のゲストにはゲイのカップルなんてざらにいる。ヨーロッパ人にも多い。彼らのなかには同じ名字を持つ人たちもいる。

しかし、みんな一様に閉鎖的だ。繊細そうな顔で話を聴き、神経質そうな目でものを尋ねる。

堂々と1つのベッドの予約で泊まりにくるし、ゲイであることに対してなにも躊躇っていないふうなのだが、やっぱり、自分たちは特別だという意識がある、みたいな感じ。

だからぜっっったいに私をその会話の輪の中に入れて話したりなんてしない、壁をつくって、ぐるりを囲んで、そして小さな覗き穴からふたりして外の世界を見る感じ。ちょっと怖い。だって敵と見なされている感じさえするもん。

繊細そうな人は簡単に傷つくし、理不尽にこっちも傷つくから関わるのが少し怖いのだ。

 

今日、アジア系アメリカ人のゲイカップルをチェックインしたとき。

2カップル同時にカウンターに来て、4人いる、のに、部屋はひとつだと言う。

「え………っと1部屋??」私は問う。「そうだよ1部屋」ゲストは少し顔を引き攣らせる。「みんなで……1部屋?」「ん……?」「4人で?」「ああ、2人で。あとの2人はもうチェックインしてるよ」

その、何気ない問いにゲストの顔が引き攣ったことに、私は傷ついた。

それに、明らかにカップルなのに、「はいどうぞ、僕の"友達の"パスポート」と言って渡してくれたとき。関係性ってなんて難しいんだろうと思った。

男女で来ていても私はなるべくboyfriendとかwifeとか、関係性を特定する言葉は使わない。だってそんなもの私にはわからないし、そういう言葉で意図せず傷つく誰かがいるからだ。

sirとかmaamとか、敬称だって難しい。性別を特定してしまうと齟齬が生まれることが、少なからず、あるから。

私はゲストに話しかけた、「(別々にチェックインてことは)みんなで現地集合だったの?」ゲストは笑顔で応える、「そうだよ」、でもやっぱり、お前には関係ないという、敵意ほどもない微かな拒絶が浮かぶ。「いいね、楽しんでね!」と言って送り出す。どんな言葉が棘となって相手に引っ掛かってしまうか、わからない。

彼らもまた明らかにゲイであることを見た目で表現しながら、同時に、閉じている。そこには矛盾が発生している、けど、彼らはそれを矛盾とは感じていないだろう。わからない、感じてるのかな。だから苦しかったりすんのかな。

 

そう、だからこそ、同性愛というのはなんと文化的な恋愛の仕方だ、とさいきん、思う。

ゲイの人たちの顔つきはみんな繊細そうで、別の言い方をすると思慮深くて賢そう。アホっぽくて陽気なゲイカップルなんて見たことない。明るく話していてもどこかの部分で外界を確実に遮断してくる、拒絶する硬い部分が見えるのだ。

内的なところに救いを求めて、そこに同化できる同性のパートナーを持つということは、本能とは逆行した、文化の賜物だと思う。

結果的に種の繁栄からは外れているから、社会という大きな生物形態がないと同性愛は成り立たない。人間社会があってこその、たくさんの人間がいるからこその、愛の形、考えたり悩んだり、拒絶したり自己投影したり、いっぱい脳みそ使わないと叶わないのが同性同士の恋愛なんじゃないかと思う。

 

私たちの世代だってまだ、日本で、そんなにみんなオープンにはなれなかったと思う。ミレニアルとはいえ、世界の人たちとはマイノリティとの接し方がたぶん違う。

欧米からくるゲイの彼らは若く、一目でゲイだと分かる格好や喋り方をしている。誇示しているようにも見える。そうしないといられないのかもしれないし、それは、私がわかることじゃないけど。

 

そして、26周年の中年カップル。彼らにはどこにも不自然なところがなくて、ゲイファッションや高い壁も必要なくて、当たり前に一緒にいる、誰が見ても仲良しだとわかる親密さをばらまきながら、だって、26年だ。

親密なのに排他的じゃないとはなんと素敵なことなのだと、思った、他人のカップルを素敵だとか言ってちやほやすることってあほらしくて嫌いなのだが、もう、屈服だ。

愛とはこれかと思った。もう、それほどだ。

愛とはこれだ、ぐるりを囲う壁もなしに、なにも拒絶しない、他の要素と関わりながら、自分たち以外は自分たちの関係にはまったく関係しないという、あんまりにも自然な、ふたりを巡る空気、あれは、他にはない。愛だ。愛。あれが愛だ。

 

あんなふうに誰かを愛するにはとても忍耐がいるだろう、彼らだって若い頃は他のゲイカップルのように周囲に睨みをきかせていたかもしれない、だって今よりもっと敵の多い時代だっただろうから、たくさんのパワーがエナジーが要ったはずだ、たくさんの障壁が、インシデントが、ラブと同じ質量のヘイトが、あったはずだ、それが、あれほどの愛を生む。

途方もない大仕事だ。あんなもの、屈服に決まっている。他に見たことがない。

 

あんなに素敵なものを見られるから、接客業っておもしろいな、と思う、日々のハードワークのなかで、くそぼけと呟きながら、そのなかでたまーーーに、ね。