私はときどきおばさんになる。
とくに男の人に嬉しい言葉や行為をもらったときに。
「あらまぁ〜すごい」
「こんなことしてもろてすみませんねえ」
「あらどないしょ!」
これはもう、だんぜん、"降りている"行為だといえる、ということにさいきん、気がついた。
女の人として降りている、物事から距離を置き、当事者になることを恐れ、自分を卑下してステージから降りる行為だと。
それは恋愛や異性間のコミュニケーションにおいてだけではない。
しかも、女性においてだけいえることではない。
男の人だっておばさんになり得る。おしゃれをやめた人、スーパーのお惣菜を毎日食べる人、他人からの善意を素直に受け入れられない人、鑑賞者に回る人、芸能人のスキャンダルが好きな人、ぜんぶ、おばさん、男女の別に関わらずおばさん。
おじさんはいつまでも当事者なので、人は降りてもおじさんにはならない。おじさんは世界の中心に自分がいると信じているからだ。
おばさんの世界の中心は自分ではない。自分の子どもや旦那、ほかの親戚や若い他人が中心で、自分は脇役。
おばさんにはすべてが他人事なのだ。自分は参加していない。そしておばさんは、他人事に心を動かされる。他人事しかないからだ。周りに、他人が起こす事故しかないから。
私は自分が当事者になりたくないときにおばさんになる。逃げるのだ。そういうとき、一気に自分の顔が老けるのがわかる。
そして次の瞬間、恥じ入る。逃げた、私はコミュニケーションから逃げた。
私は常に女でいなければならないのに。子どもも孫も持っていなくて、自分の人生の主役は自分で、だから、若くて弾けそうな一個の肉体として、立たなければ、話さなければ、物事を感じなければならないのに。
注意すべきなのはおじさんになることではなくて、おばさんになることだ。
おじさんになることもちょびっと怖いけれども、少なくともおじさんには趣味があり、哀愁があり、孤独があり強烈な自我がある。
おばさんになってはいけない。
おばさんには周りしかないのだ、おばさんはドーナツなのだ。